「うつしだす世界」を紐解いていく。
新作の撮影は、2月初頭に京都でクランクインし、2月27日にクランクアップ。およそ1ヵ月間の撮影を三島監督は走り抜けた。今回の拠点となったのは、かつて助監督として研鑽を重ねた東映京都撮影所だった。
「四条大宮に部屋を借りて、嵐電(京福電気鉄道嵐山本線)で東映京都に通っていた頃のことを思い出しました。休日には京都シネマさんで映画を観ては、「いつか自分の監督作がここにかかったらいいのに」と切実に願っていたんです。『しあわせのパン』(2012年公開)でその夢が叶い、そして今回、再び監督として京都で長編を撮れることは、大きな喜びでした」
撮影でこだわったのは、「本物の京都」を切り取ること。いわゆる観光地などではなく、人々の暮らしが脈打ち、歴史が染み付いた場所を映像として記録に残しておきたいという思いがあった。
「自分が暮らしていた街だからこそ、人の行き交う場、生活の場としての京都を撮りたかったんです。神戸の震災やコロナ禍を経て、形あるものはいつ突然なくなるかわからないということを痛感しました。映画には記録としての役割もあります。だからこそ、自分が記録として残しておきたいと思える場所でありつつ、登場人物の生活や物語を強調し、かつお芝居が自然と生まれやすい場所を厳選しました。今回、絶対に無理だろうというような場所でも、制作部やプロデューサーが力を尽くしてくれたおかげで、撮影できた場所がたくさんありました。東映京都の方も「まさかあの場所で」と驚いてらっしゃいました。本当に奇跡的なことが何度も起きて、不可能だと思われていたことも次々と実現していったんです。無事に撮影を終えることができたのは、みんなが本当に頑張ってくれた結果だと思っています」
現場には、三島監督が大切に使い続けている「宝物」が置かれていた。18年前、ドラマの監督デビューの際に東映京都のスタッフから贈られた、お尻の幅ほどしかない小さなディレクターズチェアだ。
「当時はまだ駆け出しで、東映の皆さんが「門出に」と、撮影部から赤い台本カバー、演技事務からチェアをプレゼントしていただきました。今回の撮影には、そのチェアをどうしても持っていきたかったんです。実はそのチェアは私のネーム入りで、もともとは背もたれの部分に「MISIMA」と綴られていました。本来は「MISHIMA」なのですが、幅が狭すぎて「H」が入らなかったんでしょうね(笑)。ただ、長年使い込んできたので、「MA」が剥がれ落ちて「MISI」になっていた。それを見た演技事務の川口彩都美さんが「監督、これMISIになってますよ!」って、美術部の小道具担当の方とフェルト生地を切り抜いて名前を直してくれたんです。既製品のアップリケじゃなく、その場で手間をかけて「MISIMA」を完成させてくれた。その愛情がとても嬉しくて、感動しました」
繊細な発見を大事にする。
今回の撮影において、自分自身に課したテーマは「肩の力を抜いて撮る」ということだったという。コロナ禍を経て、作家性をより明瞭にしてきた三島監督が次に目指したのは、キャストやスタッフを信じて、委ねる姿勢だ。
「もちろん今までもそうだったのですが、これまで以上に、キャストやスタッフの“繊細な発見”も大事にしていこうと思ったんです。オーケストラの指揮者のような感覚というか、演奏家一人ひとりの音や様子を細かく観察し、それぞれの個性や特徴を最大限に活かしながら、自分の持っていきたいハーモニーに整えていくことを目指しました。一昨年に指揮者の井上道義さんのラストステージを拝見したのですが、演奏家たちを驚かせるような遊び心を持ちながら、井上さん自身も心から楽しそうでした。その根底には、音楽への巨大な愛がありました。私も他者の発見をさらに信じることで、映画への愛を追求してみたかったのかもしれません」
チームワークが生まれた。
その「肩の力を抜く」という姿勢は、思わぬアクシデントの際にも活かされることになった。撮影の序盤、現場の要となる部分で急遽、体制の変更を余儀なくされる局面があったのだ。
「撮影のスケジュールや現場の連携について、ゼロから調整しなければならないことが出てきて、文字通り余裕のない状況でした。私としても、他にたくさんやらなければいけないことを抱えている中で、当然大ピンチなのですが、東映京都の方に相談したら、すぐに助っ人の方を繋いでくださいました。しかも、なんと手伝いに来てくれたその方が、私の大学時代の映画研究会の後輩だったんです。撮影部のカメラマンとも知り合いで、結果的に事なきを得ました。こうして幸運な出会いが叶ったのは、肩の力を抜いていたということもあったのかなと。楽観視というわけではないのですが、「なんとかする、なんとかなる、みんながなんとかしてくれる」と信じていたからこそ、奇跡のようなチームワークが生まれました」
あるシーンの撮影では、昨年末に三島監督が客員教授として教えた立命館大学映像学部の生徒たちもエキストラとして参加。プロのスピード感や、その場で生まれていく演出など、三島監督の背中を見つめる学生たちの横では、ベテランのスタッフで同大学の准教授も務めている谷慶子さんが「今はこういう意図で動いているんだよ」と、さながら授業のような解説を加えていたという。
「谷さんは東映京都で私が助監督をしていたときの先輩だったのですが、丁寧にみんなに説明してくれていて、もう私がその解説を聞きたいくらいでした(笑)」
こうして、約1ヵ月にわたる撮影は無事に終了。クランクアップしたその日に東京へ帰らなければならなかった三島監督は、撮影所の守衛さんに「お疲れ様でした」と優しく声をかけてもらったという。
「あの頃、助監督としてボロボロドロドロになって頑張っていた自分が報われたような気持ちになりました。撮影中、今は別の道を歩んでいる元照明部の仲間の高田さんが差し入れに来てくれたこともありました。かつて制作部で、しんどいとき一緒に星空を見上げていた仲間の福居くんが、今はプロデューサーとなり、今回の撮影でも撮影場所のヒントをいただきました。ある重要なシーンの撮影では、私の中高時代の同級生や大学時代の映画を一緒に作っていた先輩などがエキストラとして駆けつけてくださいました。今振り返ってみても、想像以上にいろんな応援をもらえた撮影だったと思います。肩の力を抜いて、けれども魂を込めて作ったこの映画がどのようにスクリーンに映し出されるのか。私自身も期待しながら、公開日に向けて踏ん張りたいと思います」
撮影/野呂美帆
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