やがて本になるwebマガジン|FILT BOOK
三島有紀子
映画監督・三島有紀子の映像作品や言葉から、
「うつしだす世界」を紐解いていく。
 1月17日に毎日新聞とスポーツニッポンで、第79回毎日映画コンクールの各賞が発表された。ジェンダーフリーの観点から俳優部門が男優・女優の区別を撤廃して初の選考となる今回、助演俳優賞には『一月の声に歓びを刻め』で魂の熱演を見せたカルーセル麻紀が輝いた。受賞の知らせに、三島監督は声を弾ませる。
「カルーセル麻紀さん、この小さな自主映画を一緒に作ってくださった全ての方に、心からおめでとうございます、そしてありがとうございます、とお伝えしたいです。80歳で命懸けで挑んでくださった麻紀さんの受賞が本当に嬉しく、審査してくださった皆様にも心から感謝しております。長い年月を生き抜いて表現を研鑽し、人生を必死で生きていたら誰かがきちんと観てくださっているんですね。そんなカルーセル麻紀さんの存在自体、色んな意味でみんなの希望になるのではないか、と思っています。麻紀さんはこう言ってくださいました。「82歳、生きていて良かった。三島監督に会えたのも運命だと思って、この役を引き受けて本当に良かったです。実は最後に私が叫んだ「おまえは美しい」というセリフ。そのセリフが(前田)あっちゃんのところに届いて、哀川(翔)君と八丈島までつながっていくんです」。お前は美しい。世界で一番美しい。麻紀さんが世界中に届けと叫んでくださったセリフです。私も、生きててよかったです」
三島有紀子
映画は発信の仕方で、
人に与える影響も変わってくる。
 昨年の2024年は『一月の声に歓びを刻め』の公開をきっかけに、さまざまな気づきを得た年でもあった。三島監督は、同年の10月28日から11月6日まで開催された第37回東京国際映画祭に参加。久しぶりに“映画漬け”の日々を過ごしたという。
「会場に毎日いたのは今回が初めてでした。東京国際映画祭は『少女』が最初の正式出品で、その後も『幼な子われらに生まれ』で招待いただいたのですが、撮影で行けないこともあったので。今回、映画を真ん中に世界中の映画人たちが集まる場所にずっといられたのは、自分の中で思った以上に大きな出来事だったと感じています」
三島有紀子
 会期中は敬愛するイタリアの巨匠ナンニ・モレッティ監督の特集イベントが行われ、最新作の『チネチッタで会いましょう』も含めた新旧3作品が上映された。
「3本ともすべて観ましたし、トークショーにも参加させていただきました。改めて大好きなモレッティ監督の作品に触れたことで、考えるきっかけをいただきました。映画監督は世の中や人間をつぶさに見つめて、発信していく仕事だと言われていますが、モレッティ監督もインタビューでそうおっしゃっていて、どう演出するかで人に与える影響も変わってくるという言葉にも共感しました。例えばモレッティ監督は暴力を描くことについて議論するシーンの中で、あえて長い時間をかけて暴力を描き、その暴力行為は何をもたらすのかと観客に考える間を与えるという例えを語るんですね。そうした意図を持って描くのと、興奮材料の一つとしてだけ描くのとでは、同じ暴力シーンでもまったく違うということをおっしゃっていて、映像表現に対する大きな投げかけだと思いましたし、自分自身もより深く考えるきっかけになりました」
 別日には、インドネシアの映画監督で同国のイスラム教におけるジェンダー問題を扱ってきたニア・ディナタ監督と対談し、自分自身も気づいていなかった作家性を知ることになる。
「ニアさんに、三島さんの映画にはストレートに女性の立場を描いた作品と、男性を通して女性の置かれた立場を表現している作品の両方があるとおっしゃっていただいて、確かにそうだなと思ったんです。『繕い裁つ人』や『Red』はどちらかと言えば女性の目線ですけど、『幼な子われらに生まれ』などは男性の目線から女性も描いているんですね。それは間口を広げるためだったり、男性にも受け取ってもらうためだったりするんですけど、意識していたわけではなかったので、新鮮な感想でした」
三島有紀子
立ちはだかる現実的な問題を、
いかに柔軟に切り替えて楽しめるか。
 映画監督でありながらプロデューサーも務めるニア監督に、同じく『一月の声に歓びを刻め』でプロデューサーを兼任した三島監督は感銘を受けた。
「ニアさんは非常に軽やかでした。とにかく楽しんで映画を撮っている感じがすごく伝わってきましたね。自分ももちろん、楽しんでいるんですが、映画づくりって予算をどうするかとか、時間がない中で何ができるかとか、現実的な問題がどんどん出てきます。でも、ニアさんはそうした問題もほんとうにさらりと受け入れたり、ときには軽やかにかわしたりしながら映画を撮られている印象で、自分もこうありたいなと思いました。ニアさんにミュージカル映画を作りたいけど、日本ではなかなか企画が通らないという話をしたんですね。そうしたら、じゃあインドネシアで撮ればいいじゃないって。ああ、できるところでやればいいのか、とその軽やかさに憧れました。またマーケットやピッチも見て回ったことによって、映画作りの可能性は世界中にあるんだなと今更ながら気づかせてもらえました」
 会期中に受けた黒沢清監督のマスタークラスでは、立ちはだかる現実的な問題への対処法を改めて学んだ。
「黒沢さんは、映画づくりにおいて実現できない問題が出てきたときに、映画の教養を使って、いかに柔軟に切り替えて楽しめるかということをおっしゃっていました。例えばスティーブン・スピルバーグのように撮りたかったけど、さまざまな問題で無理だとなったときに、でも小津安二郎風であれば可能かもしれないと思えるかどうかだとおっしゃっていました。最初に考えていたイメージと異なってしまっても、自分の幅を広げるきっかけになるかもしれないくらいに考えていくという作り方もあり、黒沢作品を好きで観てきた人間から見ても、すべての作品で柔軟性がありつつも作家性が保たれていることの凄みを改めて考えました」
 そして、東京国際映画祭の閉幕から数日後、三島監督は沖縄の久高島にいた。沖縄本島の東南端に位置する久高島は「神の島」と呼ばれ、今も琉球時代の神事や祭祀が残っている。映画のロケハンと本連載用の写真撮影を兼ねた旅は、三島監督に何をもたらしたのだろうか。
「久高島には人間が手を加えていない、ありのままの自然がありました。砂浜も整備されていませんし、草木も花もただそこに生えている。フェデリコ・フェリーニ監督の『道』という映画に「この石ころだって役に立っている」というセリフがあるんですけど、まさにその通りで、すべてに尊いものが宿っていると感じました」
 久高島の夜は、一寸先も見えない真っ暗闇だった。
「暗闇の中に佇んでいると、ある話が思い浮かんだんです。それは、大江健三郎さんが語られていたフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユによるイヌイットの民話で、「昔々、世界は闇だった。真っ暗な夜が永遠に続き食物を見つけられない。そこで、一羽のカラスが「光あれ」と強く言った。すると、地上が照らし出された」というものです。カラスの「光あれ」という祈りは切実な祈りであり、祈りとは、強い願いであり、注意を注ぎ集中するということだと伝えていました。私にとって集中するものと言えばなんでしょうか。そこに、なぜ映画を作りたいのか、どんな映画を作りたいのかという芯が宿っていると感じる、自分の原点に触れることのできた旅でした」