バブルも経験をせず、終身雇用という概念も崩れ、社会の恩恵を肌感覚で感じにくい40代前半より若い世代。まさに「右肩下がり世代」といっても過言ではない彼らは、厳しい現状の中でも新しい生き方を模索しています。「知の巨人」であり、グローバルな視点で国内外の問題を語る佐藤優がメンターとして、右肩下がり世代で活躍する人々と話し新しい時代の価値観を浮き彫りにしていきます。
佐藤 昨年刊行された長編小説『マチネの終わりに』は、新聞連載でありながらWEBで全編公開するという斬新な発表形態も話題になりました。休めないので作家は大変ですが、小説の歴史を振り返ると、新聞小説というのは非常に古典的かつ正統派の発表形態ですよね。
平野 ヨーロッパの作家に話すと「まだそんな形式があるのか」と驚かれるようです。日刊紙に連載なんて、バルザックとかそのくらいの時代のイメージなんでしょうね。今は新聞の文字が大きくなっているので文字数も少なくなって、『マチネ』は1回につき400字詰め原稿用紙約2枚半でした。昔は4、5枚はあったのかな。大変だったと思います。
佐藤 原稿用紙2枚半だって、10ヵ月間、毎日でしょう。
平野 ある程度は書き溜めて臨みましたが、それでも終わったあと体調を崩しました(笑)。連載中に握りしめていた疲労が、完結後にじわっと溶け出して、その状態が続くような感覚で。ただ僕はうつ病になるとか、自分をコントロールできなくなることの恐怖感が強いので、執筆していない時はなるべく明るく、開放的に過ごすよう心がけていました。
佐藤 平野さんが提唱されている「分人主義」も、うつ予防になるのではありませんか。一人の人間にはひとつの自我があると語られがちだけれど、そうではなく、いくつもの「分人」で構成されているという。
平野 たしかにストレスとか人生でツライことって、ほとんど人間関係ですものね。対する相手やコミュニティごとにいろいろな自分――「分人」を肯定するほうが、自分の生きやすい場所や、有効な時間の使い方を考えるうえでも役に立つと思います。コミュニティで合わなかった場合の逃げ場も持てますし。
佐藤 私は母親が沖縄出身なので、「分人」の概念が皮膚感覚でわかります。沖縄では、マブイ――魂が6つあるという考え方が主流なんです。厳密には魂と人格は別の概念ではありますが、考え方としては近いのではないかと。
平野 わかります。そもそも「個人」という概念自体が、ヨーロッパ的な発想です。多様性の中で生きる上で、当たり前のように分人を使い分けているはずなんです。それがいつからか統一された人格が良しとされ、分人的発想は「裏表がある」だとかいう言葉で、否定的に表現されるようになった。近代化における政治的な側面もあるでしょう。人格が統一された人たちのほうが、コントロールしやすいんですよね。全体主義的な体制では特に。
佐藤 たしかに私がいた頃のロシアは、表面的には何よりも形式が大事でした。ただ決められたルールさえ厳格に守っていればその下ではわりと何でもありの、まったりとした多元的で愉快な社会でしたよ。
平野 完全に統一するって無理があるんですよね。秘密警察をつくろうと強制収容所をつくろうと、人間を単一に染め上げることはできない。対応する人や環境が異なれば、人格は分化していくのが自然だと思います。
佐藤 平野さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を読んで、フローベルやモーパッサンといった、いわゆる自然主義の作品を連想しました。かつて日本の私小説のベクトルは、島崎藤村から田山花袋への流れで社会から個人へ向きました。でも本来の自然主義、私小説は、個人から社会へ開かれていくものだった。
平野 そこはかなり影響を受けています。社会的に例外的に見える存在が、どこかで人間一般の普遍性に触れる瞬間が訪れる。それが小説の醍醐味だと思うし、僕がずっとやってきたのは、関係性の中での主体を考えることなので。他者との関係性が絶たれた場所で近代的な自我を考えていくだけでは、「自分とは何ぞや」という自問自答が続くだけです。
佐藤 そうすると自家中毒的になっていきますよね。ただ最近「第3回高校生直木賞」を受賞した『ナイルパーチの女子会』や「第155回芥川龍之介賞」を受賞した『コンビニ人間』は、そういった他者不在の自家中毒的な世界を描いているじゃないですか。そこに若い世代が共感を示しているのは、末恐ろしいものを感じます。
平野 社会のイメージが膨大になりすぎて、よくわからなくなっている。バルザックの時代ならパリと郊外と出身の地方について書けばそれが世界の全体像になりました。でも今は何をどこまで書けば世界全体を表現できるかわからない。自分の位置もわからない。そうすると中東問題からもウォール街の動向からも分断された、半径数メートルの自閉した世界観に共感するようになるのかと。
佐藤優 さとうまさる 作家 1960年生まれ 東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。"知の怪物"と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。
近著に「嫉妬と自己愛」、「悪魔の勉強術」など。
佐藤 いままでのような四則演算の考え方では理解できない。書籍に関しては、私は全電子化は当分来ないと思っています。まず小学校の教科書が全てタブレットになってからでしょう。そこにある利権構造を崩すような意思決定を行うのは、なかなか難しい。
平野 話が逸れるかもしれませんが、日本の組織は意思決定や合意形成が苦手なんですよね。原発問題にしても議論に決着がつかないまま、羽田がいつの間にか国際空港になったように、なし崩し的に脱原発が進んでいくのではないかと。
佐藤 可能性は十分にありえます。それに重要な情報が必ずしもマスメディアで取り上げられるとは限らない。例えば日本には非核三原則とは別の核保有についての憲法があり、1950年から一貫して、核を保有することは憲法違反ではないとされています。そこに去年、核使用も憲法違反ではないという決定がなされた。政府のHPにも載っている情報ですが、ニュースにはなりませんでした。小説の重要な役割に、そういった社会的な側面を描くことが挙げられると思うんです。別に、社会的・政治的な事柄がテーマではなくとも、よい小説というのは、自然と社会性・政治性を帯びてくる。
佐藤 世界に点在する情報をつなげるには、相応の知力と学識が必要になりますからね。
平野 それぞれの専門分野の知は深くなっているんだけど、全体像は見えにくくなっているんですよね。未来予測にしても、近いところならまだ、分析できるのですが。
佐藤 中長期分析はできません。明日明後日の政局は政治部記者であれば、ちゃんと読める。情報屋の世界でいうと100年くらいのトレンドも意外とみんな読めるんです。腕が問われるのは、5年から10年の中期分析。
平野 小説が難しくなっているのもそこです。SFでも100年先1000年先の話ってあるんです。ただ20年先の近未来を真面目に考えるととたんにわからなくなる。例えば出版業界でいうと、本がやがて電子化していくであろうことは誰でもわかる。でもそのスピードはわからない。印刷本は残り続けるかも知れない。パラメーターが多すぎる世界になっているから、ひとつの変数が確定しても別の変数がわからない、複雑な何乗方程式みたいな状況になっていて。
平野啓一郎 ひらのけいいちろう 小説家 1975年生まれ 北九州市出身。1998年に「日蝕」で文壇デビュー。同作で第120回芥川賞を受賞。2014年にはフランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。近著に作品集「透明な迷宮」、長編小説「マチネの終わりに」など。
平野 読まれる小説かどうかも、そこにかかってくると思っています。極端な話、政治って、人間が二人いて、向き合った時に非対称であるところからもう始まっている。ある時期までの小説は社会の矛盾やその中での心境を巧みに描けば機能を果たしていたんだけれど、ここ20年くらいの感想や反応を見ていると「それはわかったから、じゃあどう生きればいいのか教えてほしい」という切実な要望を感じます。それに対してはやはり、自分以外との他者との関係性を見つめていくしかないと思うんです。そして、一人一人が「分人主義」によっていくつものコミュニティに参加することで、分断された世界が融合していく希望も僕は持っています。
佐藤 自分に対しても相手に対しても「こういう人間だ」と決めつければ世界は狭くなるばかりです。独りよがりにならず柔軟に関係性を育てていく姿勢が、より重要になっていくのでしょうね。
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