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楠木 気が重い仕事って人によって異なる理由があると思うんです。単純に向いていないとか、成果が出ないとかであれば、もっと向いている仕事や合う環境を探したほうがいいという話になると思うんですけど。
佐藤 そうですね。向いているかどうかは、実際にやってみないとわからない部分も多いですから。
楠木 僕はもともと一人で本を読んだり考えたりすることが好きで、組織の中での仕事に向かないという感覚が子どもの頃からありました。音楽が好きでシンガーになりたかったのですが、それで食べていくのは難しい。だったら好きな勉強を続けようと、大学で職を得たんです。実際に読んだり書いたり考えたりすることは好きなので、こりゃいいと思ったんですね、最初は。ところがどんどん虚しくなっていったんです。
佐藤 得意でも好きじゃないことはありますね。
楠木 まさにそうでした。調子はいいはずなのにどうも気が乗らないと思っていた30代前半に、ふと思ったんです。経営学者として論文を書いて、それが世界的に権威のあるとされている学術雑誌に載ったけれど、経営者で読んでいる人は一人もいない。むしろ経営者の方と直接話して「なるほど、じゃあこうしてみようかな」と言っていただけた時のほうが、自分にとっては喜びが明らかに大きい。

楠木 そこから、すぐに方向転換したわけではないですが、数年かけて自分の仕事を再定義して、「学術的理論よりも、経営者に向けた論理を開発して提供する」ことを目標に、一般書籍を書くようになりました。
佐藤 よく思い切りましたね。自分が得意でプロたちからも評価されていることを方向転換するのって難しいですから。かくいう私も外務省の情報の仕事に適性があったと思うんです。でも、大嫌いでした。
楠木 そうなんですか。
佐藤 無二の親友になったふりをして酒を酌み交わし、ポロッと漏れた秘密の話を大使館に持ち帰って東京の外務省に送る。要は友情を装い利用する仕事で、非常に辛かった。東京地検特捜部に逮捕された時、「ああ、これでこの仕事から解放される」と思ってホッとしました。
楠木 ご著書でいきさつは断片的に読んでいますが、スパイとは違うんですよね?
佐藤 合法だと諜報(インテリジェンス)、非合法だとスパイと呼ばれる活動ですが、境界線上の部分がかなりありました。
楠木 僕は子どもの頃にエルヴィス・プレスリーに憧れてシンガーを目指したんですが、次になりたかったのが『007』のジェームズ・ボンドなんです。常に余裕綽々なところが本当にかっこよくて。

楠木 母に「おまえの性格はスパイには向いてない」と言われ、そうだよなと思いつつ、影響を受けたものは実生活で取り入れていくタイプなので、高校1年の時に打ち立てたのが「出力8割作戦」でした。絶対全力を出さないことで余裕ぶるという。でも客観的に見ればただの手抜きで、当然成果も出ないんですよ。これはいかんと、また考えて辿り着いたのが本にも書いた「絶対悲観主義」です。最初から「絶対うまくいくわけない」「思い通りにならなくて当たり前」と考えていると、なんでもまあまあ気楽に取り組める。そこから、すごく調子がよくなりました。
佐藤 『絶対悲観主義』はとても面白かったです。私も基本的には悲観主義なので、頷くところが多かった。それに、最悪を想定するって、何をするにも重要な視点です。
楠木 ありがとうございます。あと僕の場合、人間関係に関して鈍感なところも功を奏しているのかと思います。

楠木 謙虚に行儀よく生きているつもりなんですけど、生意気だとよく言われました。お酒の席で年配の教授に「君の夢はなんだ」と詰め寄られて「去年実現してます」と答えたら説教されたり。
佐藤 私も夢とは違うけど、付き合いたくない人から「趣味は?」と聞かれた時に「趣味は貯金で楽しみは利子です」と答えたことがあります。銀行員だった父に、一番つまらない銀行員はこういうタイプだと教えてもらっていたので。
楠木 会話を断ち切るのにいい返しですね。絶対悲観主義を打ち立ててからは、人にどう思われても別に想定内なので、本当に楽です。起業したいという若い人にも言うんですよ。「心配ない、絶対にうまくいかないから」って。嫌な顔をされますが。

佐藤 優 さとうまさる 作家。1960年生まれ、東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。“知の怪物”と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。第68回菊池寛賞受賞。近著に『組織を生き抜く極意』など。

佐藤 私はアドバイスするときは「難しいね」という言い方をします。解決できる可能性はゼロではない。ただし「できない」こととは分けて考えるように。もっと言うと、成功も失敗も運命は生まれる前から決まっているから心配ない、天命のまま進むのがいいでしょう、と。成功したときは自分の実力ではなく神様の力だから、お返ししなければならない。神様に直接返せないから、近くにいる人たちに返すようにということも伝えます。私も自分が作家としてやれているのは99.9%運ですから、お返しとして優秀な学生たちの支援をしています。
楠木 結果的に世の中にとっても有益で建設的な考え方、行動様式だと思います。
佐藤 それに何が成功かなんてわからない。ニュートンだって錬金術者として金(きん)を生み出す目標は生涯叶わなかったわけです。でも、その過程で万有引力の法則や微分法を発見しましたから。

楠木 僕も最近は、積極的に失敗を味わうようにしています。うまく行かないことがあると、人のいないところに行って「……そうは問屋が卸さないな」って呟くんですよ。格別の味わいがあるのでおすすめです。似たような楽しみに「特殊読書」があります。考えの合わない人の本をあえて読んで「嫌だな」とか「気持ち悪い」と感じることを喜ぶ。例えば石原慎太郎さんの小説は子どもの頃からずっと好きなんですが、エッセイの自慢話や、コンプレックスの裏返しみたいな三島由紀夫批判あたりは「うわー」と嫌がりながら楽しんでいます。自分の中にある厭らしさも垣間見えるんですけど、それもまた喜びというか。
佐藤 なるほど。いまのお話で思い出しましたが、最近私は『東京カレンダー』を読んでいます。
楠木 流行りの情報が載っている雑誌ですよね。
佐藤 基本は飲食店の紹介です。その価値観を凝縮した『東京女子図鑑』『東京男子図鑑』という『東京カレンダー』の連載を映像化したドラマがあって、これが現代競争社会においていわゆる勝ち組と呼ばれるであろう男女の空虚さを非常によく表しているんです。

楠木 建 くすのきけん 経営学者。1964年生まれ、東京都出身。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同大学同学部助教授、同大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院客員教授、同大学大学院国際企業戦略研究科准教授を経て、2010年より一橋ビジネススクール教授。近著に『絶対悲観主義』『室内生活 スローで過剰な読書論』『経営読書記録 表・裏』など。

佐藤 常に誰かと自分を比較して、落ち込んだり焦ったり闘ったりで、本当にやりたいことが何もない。
楠木 自分の中に価値基準がないと、どうしたって他者の基準に振り回されますよね。そういう人は本をたくさん読んだらいいと思うけれど。
佐藤 東京なんて上を見たら青天井ですしね。そういう意味でも、現代俗物図鑑として興味深い。ところが30代前後の編集者やプロデュ―サ―の中には肯定的な共感を強く持っている人も少なくないんです。その風潮に危機感を持っていて、このドラマに違和感を覚える感性を育むにはどうしたらいいかを考えるのが今の課題の一つです。
楠木 まさに、教養の問題ですね。
佐藤 夢を聞かれて「去年達成しました」と答えられるのは、自分の中の確固たる価値基準があり、それを言語化できているということですからね。
楠木 僕の場合は自分に甘いという側面もおおいにあるわけですが。でも、外的要因に左右されるのは不幸の第一歩だと思います。最初の話に戻りますけど、論文を書いていた頃のモチベーションは、ランクが高いとされる学術雑誌に掲載されることでした。それってインセンティブ、外的要因なんですよね。そこに疑問を感じて、自分の内側から沸き起こるドライブに目を向けるようになって、いま一番楽しいです。何かをしていて気持ちが乗らないときは、適性の確認、それから、インセンティブとドライブの違いを再確認してみることを勧めたいですね。

撮影/伊東隆輔 構成/藤崎美穂 スタイリング(佐藤)/森外玖水子
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