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佐藤 新さんの『「東洋の魔女」論』興味深く読みました。私の世代だとぎりぎり東洋の魔女伝説を皮膚感覚で体験しているんです。例えば、『サインはV』や『アタックNo.1』などは、その伝説がなければ生まれなかった作品だと思います。1964年の東京五輪は、その後の約10年に渡って文化全体に影響をもたらしたと言えるでしょう。ではそういった“物語”が次の五輪でも作られるかというと、そうはならない感じがありますね。いわゆるスポーツにおける国民統合というものが、非常にやりにくくなっている。
 多くの国民が共有する物語を作るというよりも、スポーツ好きの人にどうやってより多くのお金を落としてもらうか、というビジネス色の強いイベントになっていますよね。主催者側の意識も相当違うと思います。1964年の場合は東京オリンピックをどう成功させるかということだけを考えていたでしょうが、今はオリンピックそのものより、跡地再利用のほうに目が向いている。大阪万博も同じです。メガイベント用に用意されたインフラを使っていかにスポーツ産業や、カジノ――というと直接的すぎるかもしれませんが、ライブエンターテイメントなどの新しい産業を牽引していくかという観点が強く出すぎている。そうでなければ現時点でレガシーという言葉は出てこないと思うんです。

佐藤 IR(統合型リゾート)や東京オリンピックの場合は住宅建設ですよね。前回は代々木のオリンピック村をそのまま売却するなんて発想はなかった。まぁ当時の日本は戦後復興中の途上国であったわけですから、目先のことでいっぱいいっぱいだったのでしょうけれども。
 そして、アメリカとの関係性の変化も大きかったと思います。ワシントンハイツで軍用地の返還があって、これから新しい日本、新しい東京をどう作っていくかという前向きな空気があった。対して今回は、バブル時代のウォーターフロント開発の負債をどう解消するか、というところからスタートしています。1980年代に沿岸部に大規模な埋立地を作りましたよね。大量に住宅を作り、新しい産業を誘致し、博覧会を行う計画があったけれど、博覧会は青島都知事の時代に中止になって、お台場は一応あるものの、当時の計画規模からしたら全然成功とはいえません。あの辺りをもっと利益の出せる空間にするというのが、次の東京オリンピックの大きな目的になっていますから、どうしても後ろ向きなイメージが拭えない。
佐藤 不良債権処理の延長上ですよね。

 ええ。さらに大阪はそれ以上の負債を抱えています。埋め立てた沿岸部は更地の状態で、オリックス・バファローズ球団の練習場があるくらい。そこをどうやったら利益を出せる空間にするかという命題の答えが万博なんですよね。完全に不良債権処理のためのメガイベントです。といってもオリンピックも万博も短期間、一度きりですから、それぞれの収益だけではとても負債の解消はできない。だから跡地利用でありIRなんですよね。
佐藤 いかに継続的に収益を生み出せるかという。慶應大学の菊澤研宗先生はそのあたりに言及して、逆淘汰が起こりかねないと警鐘を鳴らしていますね。要するに、筋のよろしくない話だから、あまりよくない企業が集まってくるのではないかと。もちろん出場する選手たちは真剣で、きっとたくさん小さな感動の物語が生まれると思う。でも、それらは前回の東京オリンピックのように10年保つことはなく、比較的早く消費されてしまう予感はありますね。

 そもそも、1984年のロサンゼルスオリンピックから、オリンピック自体がいっきに商業化したと言われています。わかりやすいところでいうと、プロ野球選手も参加できるようになりましたよね。電通とアディダスのホルスト・ダスラーが共同出資をして、スポーツのマーケティング会社を作り、放映権ビジネスを始めた時期です。そこから、もともとは同年に開催していた夏と冬のオリンピックを2年ずらすようになり、世界陸上やラグビーのワールドカップができて……。その合弁会社は2001年に破綻するんですが、スポーツマーケティング業界はもう、その論理で回っているんですね。わざわざ夏の暑い時期に実施するのもアメリカのアメフトシーズンと重ならないようにするためですし。

佐藤 優 さとうまさる 作家。1960年生まれ、東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。"知の怪物"と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。近著に『希望の源泉・池田思想:「法華経の智慧」を読む 第2巻』など。

佐藤 ふと思ったんですが、IRやスポーツ産業というのは、AI化が進む中で新しい雇用を生みやすいのかもしれません。例えばカジノのディーラーやお酒を給仕してくれるホステスはロボットにはならないと思いますし、スポーツジムのインストラクターは、AIのインストラクターよりも生身の人間のほうが好まれるでしょう。客観的な数値や正論だけを言われるより、少し丸めた表現でコミュニケーションしてくれて、自己肯定感を持たせてくれるほうがいいじゃないですか。
 たしかに、自己肯定感って生身同士の関係性の中でしか発生しない、すごく重要なキーワードかもしれません。
佐藤 だからAIで代替できるけれどもあえて代替しない。囲碁将棋だって、同じように機械とやるより生身同士のほうが面白いじゃないですか。オリンピックや万博も理屈で考えたら時代遅れなんだけど、人間の自己肯定感のような変数を入れると、やっぱりどこか合理性があるわけなんですよね。それからもう一つ、スポーツはバイオテクノロジーの発展、つまり、健康・長寿ビジネスとも結びつけやすい。

 それを考えると、先進国ではもう完全に、本来の意味でのオリンピックや万博の役割は終わっているんじゃないかと思ってしまいます。
佐藤 理屈の上で終わっているものがなぜ続くのかを考えることも重要ですよね。単に惰性ではない。今おっしゃったように、資本主義的な論理で、特定の関係者に非常に利益のある構造になっているというのも一つです。ただそれが悪いことばかりかというとそうではない側面もあるのではないかと。
 安倍内閣の日本再興計画の中で、スポーツ産業は重要視されているんですよね。この先10年で2倍以上に伸びると予測している。その先行投資としてIRやスポーツスタジアムを作り、これまでの産業構造とは違う形で都市部に埋め込みたいという意思を感じます。ただスポーツがどんどんサブカルチャー化して、国民統合のイベントから離れているにも関わらず国が公共投資して、さらにそのインフラが特定の産業に受け渡されるとなると、とんでもない利益誘導のような気がしますが。

新 雅史 あらたまさふみ 社会学者。1973年生まれ、福岡県出身。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程(社会学)単位取得退学。立教大学兼任講師。専門は産業社会学・スポーツ社会学。著書に『商店街はなぜ滅びるのか』『「東洋の魔女」論』。

 それもありますよね。オリンピックに出場するような一流のスポーツ選手は最先端医療や最先端健康産業の最も先駆的な事例の被験者であるともいえます。例えば無酸素状態で身体を動かす、脳からの司令なしに身体を動かすといった試験が医師の監督下で行われる。実際に元スピードスケート選手の清水宏保さんは過酷な練習のことを次のように表現しています。「全く人間の教科書にはなかったもの。だからこそ自分で探り当て、人間の普遍的な能力として世間に提示したい」と。
佐藤 AI+バイオテクノロジー+スポーツ。さらにゲノム編集といったものが総合したときの絵はまだ見えていないけれど、可能性として面白い。
 スポーツの世界ではよくドーピングが問題になりますが、それだけでは語れない側面もあります。エンハンスメントといって、人工的に肉体を補強・強化することであったり、あるいは高地に住む人たちが少ない酸素でも環境に適応していくような肉体の変化や、それこそゲノム、遺伝子の話であったり。
佐藤 ゲノムをいじらなくても、環境要因が肉体を変化させる事も考えられますからね。そういったものはやがて、長寿ビジネスの中に組み込まれていくでしょう。AIでさまざまなデータを解析した上で、「こんなスポーツを生活に取り入れればあなたの健康寿命が延びますよ」と言えるようになるとか。ナショナリズムとしてのオリンピックが盛り上がらなかったとしても、オリンピックが行われることで得られたエビデンスが個人の生活に役立っていく。そう考えると、また違う見方ができるかもしれませんね。

撮影/伊東隆輔 構成/藤崎美穂 スタイリング(佐藤)/森外玖水子
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