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佐藤 『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』をとても興味深く読みました。国際的にも問題視されつつあるADHDの増加や、心喪失の時代になっているという精神科医ならではの指摘を始め、さまざまな角度から現代社会の問題点を描かれている。きっと人間に対する関心がとても強い方なんだろうなと思いました。
熊代 私は人間が好きです。良いところも悪いところも含めて。もともと哲学を勉強したかったんですが、親の希望もあってなりゆきで医学部に入り、その中では精神医学が一番やりたいことに近い場所でした。
佐藤 本の中ではエラスムスの「子供の礼儀作法についての覚書」に注目されているのがとても面白いと思いました。あまり関心を持たれない論文なんですが、礼儀作法によって階級が伝わってくるというのは、すごく重要な指摘ですよね。臨床の現場におられる経験ならではの視点もあり、とても面白かったです。
熊代 ありがとうございます。白衣を着ていないときは「人助けのことは今は考えない」という気持ちで生きていますが、白衣を着ているときは社会のことを考えず、患者さんに必要なことだけを考えています。それでも、精神医療は社会の在り方と背中合わせに行わざるを得ない部分があります。

熊代 最もわかりやすい例は措置入院ですね。実質、どういう人間が現代社会からの逸脱にあたるのかの判断を迫られます。また「空気が読めない」人への風当たりなど、法未満の「常識」が無視できないことも精神医療を通して体感しています。さらにそれも私が研修医だった西暦2000年頃と、20年経った昨今では温度差があるんですよね。
佐藤 本の中に「『うつ病は心の風邪』と言われていたけれど、いまは『心』という表現を使わなくなった」という指摘がありました。とても印象的でした。
熊代 はい。そういった部分も含めて社会は変わっています。私はオフ会大好きなインターネット人間なので、さまざまな職業・年齢の方にお会いするチャンスがあって、そこでお話をいろいろ聞いていくと、どこの業界でも20年で社会が変わっていると感じたんです。そういった事柄を自分なりに集めて整理したものが『健康的で清潔で、道徳的な~』になりました。
佐藤 時代によって常識が変わっていく。つまりその時代ごとに息苦しさというものはあるんですよね。教えている学生たちにさまざまな映画を見せるんですが、一番ショックを受けるのが『海軍特別年少兵』や『七つボタン』といった旧軍隊の教育ものです。みんな驚いて「自分たちはいい時代に生きている」と言いますよ。

熊代 そうですよね。生きづらさは、昭和にも明治にも江戸時代にも、どこに住んでいても、必ずある。それでも、自分の時代の生きづらさが他の時代とどう違うのかを知っておくのは、生きづらさをハックする上で役に立つと思います。そのなかで「今風の生きづらさ」といえば、やはり、行き過ぎにも感じられる健康志向や、秩序を求め過ぎる傾向に起因するのかなあと思うのですが、この風潮もいずれ崩れると思われますか?
佐藤 崩れます。健康で清潔で道徳的で秩序のある社会は、崩壊前の旧ソ連がまさにそうでした。街にゴミなんて落ちていない。しょっちゅう健康診断があって、熱は37度5分を超えれば入院。ポルノもないし風俗店もない。しかし急激に崩れて、カオスになっていきました。崩そうと思っても崩れないんだけども、ある日ちょっとしたきっかけで、バタバタバタバタッと、突然崩れてしまうんですよ。

熊代 たしかに、あとから振り返れば因果があるんでしょうけど、渦中では気付きにくいものかもしれません。
佐藤 もちろん、じわじわと変わっていくものもあります。先ほど20年間で社会の掟が変わっているという話がありましたが、北方領土の路線も現在は1956年日ソ共同宣言をベースにすすめていく方針です。20年前には国賊扱いされて、私はそれで512日間獄中にいたわけですが、今では逆転して政府の方針になっている。
熊代 20年前は四島一括返還の論説が優勢でしたね。

佐藤 優 さとうまさる 作家。1960年生まれ、東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。“知の怪物”と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。第68回菊池寛賞受賞。近著に『見抜く力――びびらない、騙されない。』など。

佐藤 逆に、私は2002年に捕まって2005年に作家デビューしたんですが、もし1980年代に捕まっていたら社会的に抹殺されていたでしょう。当時は東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された人が社会的に復権することは不可能でした。そう考えると世の中の流転はやはり面白い。不可解な状況に立たされたときに、ふてくされたり、反権力的な態度を取ったりするのはつまらないと私は思うんです。
熊代 そう言われると、少し痛し痒しで。反権力とまでは言いませんが、私、世の中に対して憤ることが20代や30代の頃より増えてしまって。『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』では、そういう跳ねっ返りを40代や50代になってやるのは違うと書いたのに、私自身は健全な環境でただ長く生きるよりも、自分らしく生ききりたいという気持ちのほうが強いみたいでして。

佐藤 『「若者」をやめて、「大人」を始める』もとても面白かったです。成熟の大切さが主題ですが、その先にある「死」とも向き合う内容だと思いました。それでいて納得できないことが増えているというのは、やはり一つの時代が終わりかけているからだと思いますよ。ヘーゲルの『法の哲学』の序文にある「ミネルヴァの梟」が夕暮れに飛び立つように。
熊代 ただ、お隣の中国を見ても、テック監視社会といいますか、人をマネジメントするテクノロジーやメソッドが良くも悪くも進歩しています。さらに新型コロナウイルス感染症の流行に対する行動制限がヨーロッパやアメリカに比べて、日本は実行できているんですよね。それを見ると、まだしばらくは「今風の生きづらさ」が加速する余地を含んでいるのかなと。
佐藤 そう思います。ただその窮屈な分、品質がよく物価が安いという稀有な先進国になってもいるんですよね。ファストフードのチェーン店でもロシアだと店舗によって味が違うのは当たり前です。ただロシア人は日本に来てもハンバーガーは食べません。何の肉かわからないから。

熊代 亨 くましろとおる 精神科医。1975年生まれ、信州大学医学部卒業。ブログ「シロクマの屑籠」主宰。近著に『認められたい』『「若者」をやめて、「大人」を始める』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』などがある。新著『何者かになりたい』が6月21日に発売。

佐藤 自動販売機も使わない。何が入っているか信用できないから。ソ連時代はビールにネズミの糞が入っているのも日常茶飯事でした。
熊代 たしかに、日本だから当たり前のように享受できる恩恵も多々あるんですよね。コロナ禍においてもリモートワークになって喜んでいる人が周りにたくさんいます。でもそうやっていい目にあっている人がいる一方で、飲食店や非正規の人たちのように苦しんでいる人がいっぱいいる。
佐藤 個人の日常生活においても、便利になった分、不自由になっていることはたくさんあると思います。逆もしかりで。例えば私は512日間の独房生活で、600ページくらいの学術書を224冊読んで、考えたことや抜書に60枚のノートを64冊使いました。その集中度を取り戻そうと、出てきてから自分の部屋を似た空間にしてみたけれど、やはり違いますね。
熊代 本にも書きましたが、空間が私たちの意識に与える影響は非常に大きい。その意味では、自室にこもっていながら常にインターネットで誰かとつながっているような状況も今風の生きづらさの原因になっているとよく言われますよね。そうした両面を捉えて考えることも生きづらさを乗り越えるヒントになると思います。私も引き続き見ていきたいですし、伝えていきたいですね。

撮影/伊東隆輔 構成/藤崎美穂 スタイリング(佐藤)/森外玖水子
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