佐藤 山辺さんが教えている都留文科大学文学部の国際教育学科の学生は、どんな雰囲気なんですか?
山辺 都留文科大学は昔から教員養成に定評がありますが、国際教育学科は2017年に開設した定員40名の小さな学科です。2年生の後期には約半年間、全員が北欧を中心としたヨーロッパの提携大学に留学し、逆に毎年後期には多くの留学生を受け入れます。また、卒業時には国際バカロレアの教員認定証を取得します。特殊な新しい学科ですので、教育に関心はあるものの、いままで受けてきた日本の教育に疑問も持っているという学生が多いですね。
佐藤 親世代は40代から50代くらいですか。
山辺 そうですね。バブルの崩壊や就職氷河期を体験されてきた方も多く、世の中の厳しさを実感している保護者が多いと思います。
佐藤 安定志向になるんですね。
山辺 はい。ですので「ああ教員免許が取得できるなら安心ね」と送り出してくれる保護者の方は多いですが、実際は一般的にイメージされる教員養成課程とはだいぶ違うんです。全員が留学し、国際バカロレアの教員認定証を取得するために独自の教育体系について学びます。教育に関して今まで常識だと思っていた考えを一つ一つ問い直し、視野を広げていくことを目指す学科ですので、何年もここで過ごす中で学生の価値観も当然変わってくるんです。
佐藤 地方では特に保護者の影響が強くなりますね。男子校の場合は女子校とはまた別の形で母親の影響が出ます。夫が単身赴任で息子までいなくなったら寂しいから地元から出したくないと告白する母親もいるくらいで。そういう方は職業イメージもアップデートされておらず、いまだに医者や弁護士等が安定した職業だと思っている。
山辺 都留文科大学は47都道府県全てから進学してくれる学生がいるので、異なる地方性を実感することがあります。でも就職となると、自分が若かったときの職業観をアップデートできず、子供にも押し付けてしまう保護者もいるようです。進学の際もおそらく保護者の大学観が進路に影響していたのだと思います。
佐藤 山辺さんはなぜ教育に関心を持ったのですか。
山辺 私は帰国子女で、小学校の終わりまでアメリカで過ごしました。現地校に通っていた際も家庭では日本語を話していたのですが、帰国して中学に入学して初めての日本地理の授業を受けた際、先生の言葉が一言も聞きとれず、衝撃を受けました。日常会話と勉強の日本語は大きく異なるということを学んだ瞬間でした。しかし、学校には日本語教育に詳しい先生もいませんでしたので、結局は放置されたといってもいいと思います。「今日は6時間分の授業すべて理解できた」と初めて実感できたのは、中学3年の時でした。アメリカでは大好きだった学校が、その頃には決して楽しい場所ではなくなっていました。
佐藤 山辺さんが通われていた学校は、いい話も聞きます。親の会社が倒産してしまったが、修道院のシスターが他の生徒にわからないよう援助をしてくれて卒業できたとか。
山辺 修道院がある学校だったことは救いでした。特にアイルランド出身のシスターは英語で話しかけてくれて、とてもよくしてくださいました。ただ、修道院と学校にはどうしても隔たりがありました。学校では誰も私の日本語能力の乏しさの陰に隠れている能力を見てくれていないのではと思う時もありました。でも、それで火がついて、東大に入り、教育哲学を学んで「あるべき教育の姿」を語れるようになってやると一念発起しました。
佐藤 東大の入試問題はどの教科も論理を問うものですから、むしろアメリカで備わった論理的思考力が合格の決め手になったのでは。それに東大と京大の教育学部は、リベラルアーツを学ぶ場所が必要だということで、米軍の戦後の施策で作られた。だから東大の中でも別大学と言っていいほど自由度が高いんですよね。
山辺 そう思います。私は教育哲学を専攻しましたが、決められた型が無く、なぜ生きるのか、なぜ学ぶのかといった問いを自分で立て、調べたり議論したりしながら考えをまとめていくしかなくて。その探究のプロセスが楽しかった一方で、いざ大学教員になると、なぜ学ぶのかを考えない若者が多いことに驚きました。自分の行動の意味を考えないまま進学して就職してしまったら、いつかひずみが出ると思って、できる限り自分について考えさせる仕掛けを授業の中に取り入れています。現代人はおそらく物心ついてから、あらゆる場面で他者に評価されることに慣れすぎてしまっていると思うんです。だから自由に書いていいはずの自己PRの書類でも一般的に評価されやすそうな雛形のことしか書けなくなってしまう。
佐藤 優 さとうまさる 作家。1960年生まれ、東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。“知の怪物”と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。近著に『メンタルの強化書』『イスラエルとユダヤ人 考察ノート』など。
山辺 大学入試改革をして思考力を重視したり、アクティブラーニングを促してコミュニケーション能力を高めたりといった取り組みも、気をつけないとただ評価の対象を拡大する動きになってしまいかねません。評価の対象が拡大されれば、人はダメなところへの指摘を受けやすくなります。それでも欠点を克服するためのサポートがあればよいですが、実際にはその体制を整えるのは難しい。結果、どうすればよいかは教えてもらえず、自己肯定感を低くしたり、欠点を隠したりすることに神経を使いすぎて、自分はどういう人間なのか、何をしたいのかというビジョンを見失う若者が多いように思います。
佐藤 息苦しいったらありゃしないですね。だから私は大学の講義を単位外にしているんですよ。レポートもコピーペーストしたって構いません。ただしレポート提出後に要旨を書かせると、コピペ学生は書くことができない。彼らに「100万円の年間授業料を払って何も身に着かないままでいいのかな」と問いかけると、その後の態度が変わります。
山辺 私も哲学エッセイの課題では、必ず本人に問いを出させるんです。
山辺 さらに「その問いがなぜ自分にとって大事なのか」などの記述がなかったら点数をつけないようにしています。カントやプラトンを引用してもいいんですが、最後は自分の言葉で書かないといけない。そして、この指示の一番のポイントは、評価できないところにあります。他者の考えに「B」をつけるなんて無理じゃないですか。こうした記述があるかどうかだけで評価するしかない。それでも、このような課題が「つらい」と言われることも多いです。
佐藤 そういう学生には学びの意味を気付かせるところから進めないといけない。それにしても、学校教育にいいイメージを持っていないのに教育方面に進まれるのは珍しくありませんか。
山辺 そうかもしれません。特に学校の先生たちは、子供の頃から学校が大好きだったという人も少なくありませんよね。だけど学校にある評価の文化、そして受験に伴う偏差値の文化の中でも幸せに暮らせる人は、本当は一握りなんじゃないかと思うんです。いわゆる学力が高くて高評価をもらい続けた人は幸せなのかもしれませんが、下手をすると他者に高く評価されることが自己肯定の条件になってしまうかもしれません。それはそれで生きづらさが生まれます。
山辺恵理子 やまべえりこ 教育学研究者。1984年生まれ、東京都出身。都留文科大学文学部国際教育学科講師、東京大学 非常勤講師、一般社団法人REFLECT理事。著書に『ひとはもともとアクティブ・ラーナー!未来を育てる高校の授業づくり』『リフレクション入門』など(共に共著)。
佐藤 いまや道徳の授業まで評価の対象ですからね。道徳の教科書は良い話ばかり書いてありますが、キリスト教系の学校の聖書科では、人間には原罪があるという前提から、やってはいけないことを教えると同時にやってしまった後にどうなるのかにも言及します。
山辺 たしかに道徳教育って分かりやすい抽象的な善の話を簡略化してしまいがちですね。現実には思いやりを示したつもりが逆に相手を傷つけてしまうことだってあるし、そこからの挽回の仕方やコミュニケーションの取り方こそ教わりたかったりするのに。
佐藤 個々の文脈でいかようにも変わってくる。本来は評価のしようがないものだと思います。
山辺 なんでも評価の対象になるのは本当に息苦しくて。私が専門にしている「リフレクション」をカタカナ表記にしているのは日本の学校で使われている「振り返り」と区別するためです。「振り返り」は過去を振り向くという意味ですから、授業で自分がしたことを確認することがほとんどです。なので頑張ったアピールや、できなかった反省文かのどちらかになりがちなんです。
佐藤 どちらも評価の対象になりやすいですね。
山辺 一方の「リフレクション」は「反射」という意味ですから、反射させて自分を見ることができるんです。振り向いても自分の姿は見えないけど、反射なら自分を見つめられる。授業を受けながら自分はどう感じたか、どう生かしていこうと思ったかを語れるんです。そういう評価できない、それこそ人それぞれの固有性みたいな部分をもっと語れるような環境を学校にも家庭の中にももっと作ってもらいたいです。そのためにはまず、先生や親御さん自身が既存の評価の視点から脱却する必要があるとも思うんです。
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