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 今年の5月1日、新天皇即位に伴う改元が行われる。それは一つの時代が終わり、新しい時代が始まる瞬間でもある。三島監督は平成が終わることに対しての感慨はあまりないという。
「平成が終わることをあまり意識してはないですね。私、常にスタッフから『昭和な演出が好きですね』って言われているので(笑)、どちらかといえば、昭和が終わったときのほうが印象的だったかもしれないです」
 昭和が終わり平成になった日、三島監督は神戸の「メリケンパーク」にいた。
「そういえば、今考えたら昭和の終わった日は映画を撮っていましたね。8mmフィルムで。メリケンパークは『繕い裁つ人』にも出てくるんですが、そことまったく同じ場所で、学生時代のその日に、自主映画を撮っていました」
 当時、神戸女学院大学に在学中で「全関学自主映画制作上映委員会」というインターカレッジサークルに所属していた。

「とにかく大学に入ったらすぐに映画を撮りたかったんです。高校の時はアルバイトが禁止だったので、フィルムも買えず、映画が作れなかった。だから大学に入ったら、すぐにアルバイトをして、すぐに撮れるように、一番機材が揃っていて、なおかつ、自主的に映画の撮れるサークルを探していました」
 所属したのは、1969年に創設された、今なお続く歴史のあるサークルで、カメラはもちろん、三脚に映写機、編集機などの機材も一通り揃っていた。
「いろんな大学の映画を撮りたい人が集まっていて、必要な機材は全て揃っていたので、迷わずそこに入りました」
 平成に移り変わる瞬間に「メリケンパーク」で撮影していたのは、監督の自主映画作品の一つ。脚本から手がけたオリジナル作品だった。












「スタッフは、撮影と記録と、あと大きなものを運んでくれる先輩後輩とか、全部で3人くらいだったと思います。役者さんは結構いて、10人くらい。たぶん1年くらいかけて作り上げました。制作費は40万円くらいかかりました。機材はタダなので、ほとんどはフィルム代と現像代です。あとはみんなの交通費や食事代。基本的に食事代は出さないんですけど(笑)、やっぱりお正月から呼んで手伝ってもらったりしているので、たまには出さないと(笑)」

 40万円は全てアルバイトで貯めた。塾の講師や模擬試験の試験官、パン屋やエレベーターガールなどを経験したが、中でも精神的に大変だったのはエレベーターガールだったという。
「けっこう恥ずかしかったですね。密室ですしいろんなお客さまがいらっしゃいますから。制服を着て、笑みを浮かべながらフロアーの案内をする、という女性だけがやるこの仕事に違和感もありました。向いてないとも思いましたしね。でも、フィルムを買うお金を作るんだ、という一心で一作目を創るまで続けました」
 こうして苦労して作り上げた自主映画の第一作目は「ケセラセラ上映会」で上映された。
「あまりにもいろんなことが大変すぎて、もうケセラセラだ!って言って、この名前になったんです(笑)。今から考えるとたいして大変ではないんですよね。でも当時は大変に思えて。大学内で上映するんですが、映画の仕上げをやりつつ、チラシを作って街で配ったり、プログラムを作り、上映の場所、機材を確保し…お客さまが会場に入ってから機材に故障が見つかったり…(笑)。そんな中ではありましたが上映できました。そう言えば両親も観に来ました」










 監督の初となる映像作品の上映だった。
「あの時に、処刑台に立たされる気分というのがよくわかりました(笑)。幕が上がる時の、あのなんというか、剥き出しになってしまうんだ『どうしよう……』みたいな感じで」
 映画は土日の昼夜、計4回上映された。観た人にはアンケートを書いてもらったという。
「親からも直接感想を聞いてないんですよね。父のアンケートには『まぁまぁやな』みたいなことが書いてあり(笑)、母のアンケートには『本気だったんですね』というようなことが書いてありました」

 実は三島監督、高校卒業後は日本映画学校への進学を希望していたという。
「これは神戸女学院の卒業生のインタビューをまとめた70周年記念誌『Stories』にも書いてあるんですが、父から『急いで技術を身につけるより、映画で何を発信していくかを学ぶためにも、映画とは違う分野の教養を身につけるべきではないか』と諭され、関西の大学に行くことにしたんです。うちの父親っていつも正論なんですよ。両親は、どこかで私が映画を撮りたいっていうのを本気だと思ってなかったと思うんですよね。でも、上映会で映画を観てもらい、初めて本気だと思ってもらえたというか。ある種の諦めのようなものがあったと思うんです。『ああ、もうこの子はこういう子なんだ』って(笑)」

三島有紀子

三島有紀子 みしまゆきこ 大阪市出身。18 歳から自主映画を監督・脚本。大学卒業後 NHK 入局。数々のドキュメンタリーを手掛けたのち、映画を作りたいと独立。最近の代表作に『繕い裁つ人』『幼な子われらに生まれ』など。上梓した小説には『しあわせのパン』(ポプラ社)、『ぶどうのなみだ』(PARCO出版)がある。2017 年に第41回モントリオール映画祭審査員特別グランプリ、第42回報知映画賞監督賞、2018年はエル ベストディレクター賞を受賞。

 初めて映画への情熱を両親に伝えられた大学時代。さらに物事の多面性も大学で学ぶことができた。
「とにかく授業が面白くて、授業にもよく出てましたよ。アメリカ文化史では、リンカーンが人道的な理由だけではなく、国の経済発展のために、労働者確保を目的に奴隷解放を進めたのではないかという視点、晩年、差別の対象をなくしたことに後悔していたことを手記などで知ったり、“様々な角度から見ないと真の姿は見えてこない”という価値観を学べたのは大きかったです。それは今の映画作りにも、活かされているかもしれません」

撮影/伊東隆輔 撮影協力/落合「Cafe 傳」
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