やがて本になるwebマガジン|FILT BOOK
佐藤 優×住吉雅美
佐藤優がさまざまな知識人と語り合う対談録。
今回は青山学院大学教授で法哲学者の住吉雅美さんが登場。
佐藤 今回の編集部からのお題は「格差」とのことですが、FILTの読者はどちらかというと、いわゆる資本主義社会の勝ち組が多いんじゃないかな。住吉先生が『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』の中で言及されている、アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)を身体化している層ともいえる。教えておられる青山学院大学法学部も、比較的、経済的余裕や文化資本のある学生が多いのではありませんか?
住吉 そうですね。私は2022年度に新設された、日本初のヒューマンライツ学科で法哲学を教えています。人権に関わる社会問題を扱う学科ですから、講義の中で「日本は先進国の中で相対的貧困率が最も高いんだよ」とよく伝えます。すると意外にも「へえ、そうなんだ」と、初めて知ったような反応が少なくないんですよね。人権を冠した学科を選んだ学生でも、身近に困っている人がいないと実感しにくいものなのかもしれません。とはいえ状況が変わることはあり、コロナ渦で親御さんがリストラに遭って、学費や仕送りが払えなくなって休学、退学するという学生もいました。一方で、家庭環境に恵まれず、入学時から親に頼ることなくバニーガールなどの高給アルバイトで学費を稼いで卒業した学生もいます。いろいろです。
佐藤 優
ルールが生まれた理由を考える習慣を持つと、
今、感じている窮屈さは緩和されるはず。
佐藤 青学の向かいに昔、社交クラブがありましたね。バニーガールが接客してくれる会員制のクラブ。たしかに青学の学生もいました。学生のバイトとして悪くないんですよ。質の悪い客も来ないし、給与もいいから、経営者の方が以前「大学生にも効率いい安全なバイトとして使ってほしい」と言っていましたよ。
住吉 そうなんですか。
佐藤 この会員制クラブはもともと旧軍関係者や情報将校が集まれるための場所だった。だからバニーさんは4月には羽織袴を着て靖国神社で『同期の桜』を歌っていました。
住吉 へえー!
佐藤 学生は学費だけでなく生活費や交際費もバカになりませんからね。ある医大の教授から聞いた話だと、親が医者でも、銀座や歌舞伎町のクラブでアルバイトをしている医大生もいるということです。なんせ授業料と施設費が6年間で4700万円。しかもそれなりの層の同級生との付き合いを踏まえると6000万円ぐらいは要るわけで、そんな金額をぽんと出せる医者は開業医でも少数でしょう。
住吉雅美
住吉 そう思います。相対的には恵まれていても、支出が多ければ「余裕がある」とは言いきれないですよね。
佐藤 同じタワマン住人の間でさまざまなマウンティングが発生するように、同属性の中でも格差は生まれるから。自分の見栄や、狭いコミュニティ内の常識にとらわれて苦しんでいる人って多いと思いますよ。それに気づいてすらいない人も。
住吉 わかります。現状に窮屈さを感じている人は、「ルールだから」「みんながそう言っているから」ではなく、そのルールがなぜ生まれたのか、本当に必要なのかを考える習慣を持つだけでも、窮屈さが緩和するんじゃないかと思います。
佐藤 では格差がなくなったらどうなるのかというと、これはまた複雑な問題です。旧ソ連はアファーマティブ・アクション(民族・人種・性別などによる差別に苦しむ社会的弱者の不利な現状を是正するための積極的な措置)帝国でした。あらゆるところに格差是正のためのルールがあって、例えば文豪も無名の新人作家も完全に一律の原稿料、絵画も作品のサイズで値段が決まっている。著作権はすべて国家のもの。ある意味の「平等」を非常に面白い形で実現していた。その中で一部、ノーメンクラトゥーラという党幹部だけの特権がある。基本的に市場に出まわる牛乳や卵は鮮度が低くて、一番安いやつは完全に腐っているんだけど、党幹部の行く店にはまあまあ新鮮な腐ってない卵や牛乳が置いてあるんです。
佐藤 優×住吉雅美
弱い立場の人ほど、
法を味方につけてほしい。
住吉 ええと、そもそもなぜ腐っているんですか?
佐藤 運搬の途中でもう傷んでいるから、開き直って冷蔵庫に入れないんですよ。牛乳パックなんて発酵ガスでパンパンに膨らんでいました。でも言ってみればエリートである幹部の特権も「腐ってない牛乳や卵が買える」くらいなんです。基本は何をしたって同じ報酬だから、運ぶ人も急がないし、品質管理もしない。店側は売る努力などせず腐った牛乳や卵、ネズミのうんこが沈んでいるジュースだって平気で売っている。ビンをいちいち太陽に透かしてうんこが沈んでないかチェックして買う必要がありました。「格差が完全に是正された社会」がもし実現したら、ネズミのうんこ入りジュースがデフォルトにならないだろうかと、私はつい心配してしまうんです。
住吉 わかります。私はアナーキズム(無政府主義)が好きで、個人的にはアナルコ・キャピタリズムやリバタリアニズム(自由至上主義)に関心があるのですが、そのままでは格差は広がるばかりです。対して、格差是正に関して法はどのように介入すべきかを述べたのがアメリカの哲学者ジョン・ロールズでした。彼は1971年に発表した『正義論』の内容は、現在も活発に議論されています。ロールズはアメリカでは左翼扱いされることも多いんですよね。資本主義が前提なのに……と思っていたけれど、今のお話でなるほど共産主義と共通するところがあると感じました。
佐藤 ソ連の場合は社会的な合意形成ではなく、イデオロギーと暴力装置によって実現していたんですけどね。どんな社会が良いかという議論は、結局人間とは何か、生きるとは何かという問題に行き着きます。だから先生のご本も、さまざまな身近な事例を挙げながら、その是非を述べるのではなく、徹底して「法を疑え。答えは自分で考えろ」と伝えている。そこが素晴らしい。「哲学なきルール」って怖いんですよ。盲目的に従うのではなく、なぜそのルールができたのか、現在その法律が本当により良い社会につながっているのかを考えてみることは、非常に良い思考訓練になると思う。特に今の時代に苦しんでいる人って、常識にとらわれて自縄自縛になっていることが多いから。
住吉 そうですね。私は法哲学には、実定法(社会に現実に行われている法)に協力的姿勢な「天使の法哲学」と、実定法を疑っていく「悪魔の法哲学」という二つの側面があると思っています。私はどちらかというと「悪」寄り。「法律だから絶対!」とガチガチに思考停止してしまうのは違うよなってずっと思っています。だって強い立場の人間は、権利を主張しなくても守られていますし、むしろ権力で法律を踏みにじることもできます。だからロールズよりもさらに平等にシフトしたアメリカの法哲学者ロナルド・ドウォーキンが「権利は弱き者の切り札だ」と言っているように、弱い立場の人ほど法を味方につけてほしいんですよね。でも実際は適応型選好形成という、周囲の環境によって選択肢が絞られてしまう現象があって、そういう子はなかなか法学を学ぶ環境を選ばない。自分が苦しい状況にあることに気がつかないまま順応して、その結果、本当は勉強がしたくても無意識に学ぶことを諦めてしまったり、騙されて闇バイトのようなことをしてしまったり……。
佐藤 同志社でも経済的に恵まれているとはいえない非常に優秀な教え子がいて、何人かは個人的な持ち出しをして面倒を見ています。そうして学んだ学生がまた同じように優れた後輩を助けていってくれるように。格差是正における「贈与」の縦の連鎖が起きることを願って。
住吉 素敵です。日本の場合は、アファーマティブ・アクションも累進課税もアメリカやヨーロッパほど強くはないですし、格差是正に関してちゃんと立法されているとは言えません。そもそも政治家が平気で法律を破る国です。法律を学んで正義を実現しようと思っても、社会は別の論理で動いている。ほんと法律の無力さを感じてしまいますし、だから法学部も人気がないんです。
佐藤 法哲学者は、時代の節目をつけるという非常に重要な役割があります。ある時代が終わる前の夕暮れに「こういう時代だった」と振り返る大きな視点を持っている。これは実定法での解釈をする法学者にはない視点でしょう。ゼミの学生たちにも今、先生のご本を読ませています。きっと知的な刺激を受けると思う。あまり物事を疑わずに育ってきた素直な学生も、苦しい中でがんばっている学生も、先生の考え方に触れるか触れないかで、一生がだいぶ変わるんじゃないかな。
住吉 ありがとうございます。本はかなり「悪魔の法哲学」の立場で書いています。道徳的にはタブーとされている人肉食などにも触れていますから「こんな見方があるんだ!?」って思ってもらえたら嬉しいですね。フフ。