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佐藤 優

佐藤 優

佐藤 優

立ち位置を見つけられず、将来を見通すこともできない現状の中で、それでも何かをつかもうと、多くの人々が自分の生き方を模索しています。「知の巨人」であり、グローバルな視点で国内外の問題を語る佐藤優がメンターとして、さまざまな知識人と語り合い、新しい時代の価値観を提言。手探りで生き方を探す人々に対して、方向性を指し示します。

佐藤 優

撮影/伊東隆輔
構成/藤崎美穂
スタイリング(佐藤)/森外玖水子

偶然性を味方にする

人間が数値化されることに

違和感を覚えるようになった ―― 磯野

佐藤 医療人類学はこの先一層注目される分野だと思うんですが、やっている方は少ないですよね。磯野さんはどういったきっかけで関心を持たれたんですか?
磯野 もともとスポーツトレーナーになりたくて早稲田大学で運動生理学を専攻していました。けれど次第に人間がどんどん数値化されることに違和感を覚えるようになったんです。もやもやした気持ちを抱えたままアメリカに渡り、たまたま潜った文化人類学の授業に衝撃を受けて3日後に専攻を変更、研究テーマとして運動生理学と接点のある摂食障害を選んだのがスタートでした。
佐藤 磯野さんのご本を読んで、世代的に価値相対主義の影響が強いはずなのに、価値相対主義的じゃないところが素晴らしいなと思ったんです。磯野さんの中には、自分が正しいと信じる価値観がある。行間から正義感がにじみ出ている。
磯野 そこまで読んでいただけるなんて嬉しいです。
佐藤 イギリスやロシアでも一流の人類学者ってみんなそうで、これは強みだと思います。そしてどの本にも、医療従事者に対する敬意と愛情を感じました。
磯野 現場には制度のきしみやゆがみの中でがんばっている方がとても多くて、でも発信しないから声が聴こえてこないんです。なら伝える役割を担おうと思って書いたのが『医療者が語る答えなき世界』でした。
佐藤 それから宮野真生子さんとの共著『急に具合が悪くなる』と、勅使川原真衣さんの『「能力」の生きづらさをほぐす』では、著者に伴走してその伴走の痕跡をきちんと残る形で作品にする、という新しい方法論を取られている。これも素晴らしいですね。もし磯野さんが生前の米原万里さんと知り合えていれば、きっといい作品になっただろうと思いました。
磯野 そういっていただけると励みになります。伴走という言葉は、その渦中にいるときは全く思い浮かばなかったのですが、前者に関しては宮野さんからその言葉が出て、後者に関しては振り返ったとき「伴走者」という言葉が浮かびました。人類学者の営みを考えると、この2冊こそが最も人類学者らしい軌跡と言えるのかもしれません。
佐藤 でも、どの本も書きたいことを全部書ききれていないでしょう。書かれた言葉は氷山の一角でしかない。
磯野 そうだと思います。
佐藤 それは本の書き方として正しいんです。だからこそ余韻に説得力が生まれる。 ところが今の本は、割り箸の先に氷をつけて水の上に浮かべるような作りがとても多い。パッと見は同じに見えても、基盤がないから周辺の問題には全く対応できません。
磯野 流行りの「リスキリング」もまさにそういった感覚ですね。転職に有利だからと、表に見えるスキルだけを選んでくっつけていくような……。
佐藤 本来リスキリングは企業が優秀な社員の退職を防ぐために自社で行うものでした。それがいつの間にか個人のスキルを伸ばすという、異なる概念に変わってしまいました。
磯野 子育て中のリスキリングを推奨するとか。
佐藤 とんでもないですよ。しかもその感覚は自己責任論の延長線上です。勝ち抜ける人はいいけれど、うまくいかなかったら自信をなくして、ますます沈んでしまう。
磯野 私は2020年の一時期ハローワークに通っていたんですけど、朝8時半の開所前からずらっと人が並ぶんです。密を避けるために椅子が減っていて座ることもできない。

人生のさまざまな局面に

「たまたま」を入れ込めるかどうか ―― 磯野

磯野 でもメディアはそういう失業者の姿を報道しません。「弱者を守れ」という学者たちの言葉もどこに向けられているのだろう……などと思いながら並んでいました。
佐藤 官僚も国会議員も成功は自分の努力によるものだと思いこんでいる。だから、社会の構造がどれだけ悲惨な状況であっても直視することなく、個人で頑張ればどうにかなると思っているんです。
磯野 佐藤さんは以前、どなたかとの対談で「賞をとったのはたまたまだと思う」とおっしゃっていました。人生のいろんな局面だとか、自分や他人をみる時、そういうふうに「たまたま」を入れ込めるかどうかって、ものすごく重要だなと思って。

佐藤 優

教育の合理性がエスカレートすると

子どもを投資対象として見るようになる ―― 佐藤

佐藤 たしかに。小学校受験だと、お茶ノ水や学芸大附属などは最後くじで合否が決まりますからね。
磯野 いいですね、それは諦めがつくというか。でも今はくじの要素を減らす方向に加速しているじゃないですか。医療もそうですが、エビデンスやデータばかり最重視されて。
佐藤 するとどうなるか。アメリカの教育社会学者のヘックマンは幼児教育の経済学で「0歳から3歳までの教育投資が安定した人生を送る上でもっとも合理的だ」と唱えている。これがエスカレートすると、子どもを株と同じような投資対象として見るようになる。
磯野 危険ですね。人の体の比喩表現の変遷を調べたことがあるんですが、昭和はガソリンを入れるとか油をさすとか自動車のイメージで、今はITなんですよね。メンテナンスとか、アップデートとか。怖いのは、比喩だと思っていても、その比喩が還流してきて人間の身体の捉え方そのもの、ひいては感じ方まで変わってしまう。だから子どもを株みたいに見るってかなり怖いですね。
佐藤 その雰囲気がよく出ている『二月の勝者』という中学受験の漫画があります。
磯野 どうしてそんなにいろいろ読まれているんですか。
佐藤 お母さん方と話をするから必然的に。名言がいくつかあるんですけど、例えば、中学受験の勝利の秘訣は父親の経済力と母親の狂気、だとか。中学受験は課金ゲームだ、とか。塾の科目に道徳はありません、とか。これがお受験マニュアルとして300万部以上売れているって、なかなか凄まじい現象ですよね。
磯野 ディストピアですね……。他方でインクルーシブとかダイバーシティみたいな優しい言葉がこれほど言われてる社会ってなかったと思うんです。少なくとも私が生きてきた中では、いちばん寛容なキーワードの多い時代になってきているというか。
佐藤 仏教的にいうと、ダイバーシティとかインクルーシブは顕教、表の世界なんですよね。対する『二月の勝者』は裏の密教。顕教のほうで立派な建前が増えれば増えるほど裏の世界、すなわち闇も深くなるのは必然なんでしょう。
磯野 佐藤さんは『二月の勝者』を読んでいるお母さんたちに対して、なんてお声掛けするんですか。

不遇な状況下でも続いた

人間関係はなにより貴重 ―― 佐藤

佐藤 優×磯野真穂

佐藤 勉強自体には意味があるけれど勉強嫌いになったらいけない、とか。埼玉に引っ越して県立浦和高校から希望の大学を受験したほうが費用はかからない、とか。二月に勝者になったところで大した大人になりません、とか。ケースバイケースですね。
磯野 面白い……読みます。今日のお話で改めて思いましたが、仕事でも子育てでも、みんな自分ががんばったって思いたい。でもその考え方って、うまくいかなかった人は努力や能力が足りなかったんじゃないかとか、性格や行動に問題があったんじゃないかといった、個人還元主義的な発想につながりやすい。だからこそ偶然の要素を意識して、自分にも他人にも理由付けしないようにすることが大事なのかなと思いました。それに人生が面白いほうに動くときって、自分の力で動いてないと思うんです。私が人類学を始めたきっかけもたまたまですし。
佐藤 出来事の幸不幸もわからないですからね。もし私が檻の中に入ることなく外務省を定年退職し、大宅壮一賞をもらった『自壊する帝国』と全く同じ原稿を整えても、どの出版社も相手にしてくれないですよ。数百万持ち出しの自費出版ならできたかもしれないけど。それに不遇といわれる状況下でこそ続いた人間関係はなにより貴重です。仕事相手でも、友人も、当時恋人だった今の奥さんもそう。
磯野 なんていいお話。私も全く同じです。
佐藤 だから良くも悪くも自分で何もかもコントロールできるなんて考えず、偶然性を大事に、くじ引き感覚を楽しんだほうがいいんでしょうね。

佐藤 優 さとうまさる 作家。1960年生まれ、東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。“知の怪物”と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。第68回菊池寛賞受賞。近著に『よみがえる戦略的思考 ウクライナ戦争で見る「動的体系」』など。

磯野真穂 いそのまほ 人類学者。長野県出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒。オレゴン州立大学院応用人類学修士課程修了後、早稲田大学にて博士(文学)取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。近著に『ダイエット幻想 やせること、愛されること』『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』など。

撮影/伊東隆輔
構成/藤崎美穂
スタイリング(佐藤)/森外玖水子