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佐藤 優

佐藤 優

佐藤 優

立ち位置を見つけられず、将来を見通すこともできない現状の中で、それでも何かをつかもうと、多くの人々が自分の生き方を模索しています。「知の巨人」であり、グローバルな視点で国内外の問題を語る佐藤優がメンターとして、さまざまな知識人と語り合い、新しい時代の価値観を提言。手探りで生き方を探す人々に対して、方向性を指し示します。

佐藤 優

撮影/伊東隆輔
構成/藤崎美穂
スタイリング(佐藤)/森外玖水子

『こころ』をなくしかけた時代に必要なもの

「心」という言葉は、

近代以降に生まれた概念 ―― 東畑

佐藤 今の日本では「心」という概念が消えつつありますよね。医学界でもメディアでも、代わりにその場所を占めているのが「脳」。私はここに非常に抵抗感があります。ソビエトの精神療法がまさにそうでした。脳をちょっといじればそれで悩みは解決というような。
東畑 今使われている「心」という言葉は「個人」と共に近代以降に生まれた概念だと思うんです。だからソ連、かつての中国もそうですが、個人が制約されている社会では心理療法が発展しないイメージがあります。そういった中では個々人の悩みはどう対処していたんでしょうか。
佐藤 ソ連の場合はオカルト分野、特に占星術が担っていましたね。それも公には禁じられていたけれど。
東畑 それらは自分の問題を外側に見い出していくアプローチで、心理学の自分の内側に見い出していくアプローチとは真逆です。佐藤さんは精神分析や心理療法のアプローチにどのような印象をお持ちですか。
佐藤 非常に重要だと思っています。特に、自分は正しくて他者や世界がおかしいように見えている場合は、むしろ自分の心のありようを見つめ直す機会があったほうがいい。もちろん外在的要因が心に作用するということもありえるけれど、どのような問題に対処するにしても、究極的には心の自律性が問われますよね。
東畑 僕はサイコセラピストなのでやはり「心」を大事にしたいのですが、ただ、アンビバレントな思いもあります。実際、外的な問題も多いので。例えば河合隼雄先生らが活躍した90年代は言ってみれば「私だけの心」について考えられるだけの緩さや豊かさがあった。
佐藤 わかります。『心のノート』なんて書かせることができるのは社会に余裕があるからですよ。「お金がなくて2日なにも食べていない」とか「毎日親に殴られている」とか書かれたら、心理学だけでは解決できない。
東畑 社会が非常に厳しくなる中で、心のプレゼンスは薄らいでいかざるをえなかった。ですから、この厳しい現代で心を大事にしましょうと声高に言うことには無力感を感じてしまうところがあって……。内面より、まず環境が大事だよなってやはり思いますから。
佐藤 臨床の現場では個別的な問題を扱われますし、一方で社会の共通価値観もありますから、そこの境界線をどう引くかは難しいのだろうなと推察します。神学部を出て牧師になる人も臨床牧会学という臨床心理の訓練を受けます。カウンセリングの基本的な技術に近いものだと思うんですが、同志社大学の神学科で演習しているのはホスピスケアでした。回復がのぞめない人たちに「あなたのために祈ります」と言って「帰れ」と追い返される経験を何度もして、牧師になっていく。
東畑 心理的苦悩のケアというよりは、魂のお世話のようなイメージでしょうか。
佐藤 そうですね。ドイツ語のSeelsorge、魂への配慮という意味の言葉を牧会と訳しています。
東畑 僕はカトリックなのですが、臨床心理学の最大の弱みを考えたとき、やはり死生観の問題があるのかなと。東日本大震災のあと、東北大学を中心に臨床宗教師という資格が作られました。宗派を問わずに様々な宗教者の方がその認定を受けて、今も災害トラウマなどを持った方々の話を聞く活動をされているんです。ただし基本は教義を前面に出さないようですが、僕は教義には死生観が含まれているので、案外そういうものを出していったほうがいいのではとも思ったんです。

緩和ケアの先をケアできるかどうかで、

患者との距離感が違ってくる ―― 佐藤

佐藤 たしかに。末期がんの人たちを相手に、自由診療を行っているがん専門医は結構多いのですが、一部の人たちは得度(とくど)していますね。緩和ケアの先、死後。そこをケアできるかどうかで患者との距離感が違ってくる。そうなってくると医療法人なのか宗教法人なのか、半分わからないなと思いますが。
東畑 医療と宗教ってもともと混然一体としたところにあったもので、それが最後に死を思う時、同じところに来るんだろうなという気はします。
佐藤 先生が最初に書かれた『野(の)の医者は笑う―心の治療とは何か?』に出てくる野巫(ヤブー)を思い出します。
東畑 沖縄のスピリチュアルヒーラーやユタを取材した本ですね。

佐藤 優

何も信じていないと思っている人も、

実は何かを信じている ―― 佐藤

佐藤 いわゆるシャーマン、宮廷付きではない医者のこと野巫と呼んでいた。私の母親ぐらいまでの世代は、実際に野巫にかかった経験があるんですよ。小児まひになったときにカミソリを使って瀉血(しゃけつ)した痕がずっと残っていました。近代的な医療が発達する前はごく普通だったんですよね。
東畑 瀉血は西洋でもありましたし、僕も1度、背中から血を抜いてもらったことがあります。なんだか元気が出たんですよ。病って医学的には体の問題ですが、とりわけ慢性疾患になると、病んだ状態が生と一体化してくる。そうなってくると、野巫のような行為が一概に役に立たないとは言えないんじゃないかと思うんです。
佐藤 今も自由診療の一部は野巫的なところありますよね。サプリメント外来とか。3万円のビタミン注射など首を傾げるものもあるけれど、調子が良くなったと感じる人が相当数いるから、繁盛しているわけですからね。
東畑 そう思うと「信じること」の意味を考えさせられます。「信じること」は今非常に難しくなっています。例えばオウム事件や学生運動もそうかもしれないけど、日本社会では何かを信じると盲目的になって破壊的なことにつながるというトラウマがありますね。
佐藤 誰だって何かを信じています。ロシア宗教哲学者のニコライ・ベルジャーエフ曰く「無神論は存在しない、神がいないということを信じているだけだ。唯物論も存在しない、物質を信じているだけだ。信じるという行為は人間から除去できない」。実際何も信じてないと思っている人だって、カネや学歴を信じていますから。
東畑 何を信じるかが大事になってくるのでしょうか。サイコセラピーの目的って最終的になんだろうと考えたとき、神ではなく人間を信じることは可能かということだと思うんです。それは「他者を信じること」でもあり、同時に「自分というものを信じることができるか」という問題でもあります。自尊心や自己肯定感って非常に壊れやすいものです。だからこそ、それは自分で培うのではなく、誰かが、あるいは社会が大事にしてくれないと維持しえないものだとも思うんですね。

佐藤 優

身近な人に相談できる場所が

もっと増えるといい ―― 東畑

東畑開人

佐藤 それは絶対にそうだと思いますよ。きちんとした臨床牧会学の訓練を受けていないのにすごく評判のいい牧師がいるんです。いい加減なんですよ。どんな相談を受けても、肯定して後押しすることしか言わない。ある時「何も考えてないんじゃないか」と言ったら「相談に来た時点で自分の方向性はだいたい決まっていて、背中を押してほしいんだ。本当に決められないときは専門家を紹介するし、犯罪に関わることは止めるけど」と。身も蓋もないとは思いましたけどね。
東畑 いい牧師さんだなと思います。受け止めてもらえた感じとか、わかってもらえた感じ、ほとんどの心の健康って、そういうものに支えられている気がするんですよね。僕らは専門的な技術を持ってやっていますけど、根本的には人生相談であるという側面もあります。同じコミュニティーの身近な人に相談できたらどれだけ助かるかということも多いので、そういう場が増えるといいなと思います。
佐藤 『週刊SPA!』の人生相談も、やはり毎回ものすごい数が来ます。でも数回に1度は「良き臨床心理士とペアになっている精神科医のところに行くといいでしょう」と投げてしまいます。やはり妄想だとかそういった方面は専門家にお任せしないといけない。
東畑 僕もいつか紙面で人生相談をやりたいなあと思っていて、お声がかかるのを待っています(笑)。

佐藤 優 さとうまさる 作家。1960年生まれ、東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。"知の怪物"と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。第68回菊池寛賞受賞。近著に『プーチンの野望』など。

東畑開人 とうはたかいと 臨床心理士・公認心理師・博士(教育学)。1983年生まれ、東京都出身。白金高輪カウンセリングルーム主宰。主な書著に『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』『心はどこへ消えた?』『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』など。

撮影/伊東隆輔
構成/藤崎美穂
スタイリング(佐藤)/森外玖水子