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 第2回のゲストは2016年に公開された『湯を沸かすほどの熱い愛』が大きな話題となった中野量太監督。
杉野 中野監督は普通の大学を卒業して、その後、日本映画学校に通ったんですよね。もともと映画が好きだったんですか?
中野 いえいえ、僕は映画少年でもなんでもなかったんです。大学時代はずっとバンド活動をしていました。11人編成のスカバンドで、僕はサックスを吹いていたんです。
杉野 そうなんですね! それは初耳でした。
中野 でもメンバー全員がスカって音楽を未経験で、まず誰もホーンセクションの楽器を持っていない(笑)。
杉野 それでサックスを選ぶとは、いい度胸というか(笑)。
中野 サックス、買いましたよ。16万円くらいで。バンドはまずまず好評で、コンテストで賞をもらったりしたんですが、音楽で食べていけないのはわかっていた。でも表現することで人を喜ばせることは好きだったんです。「表現の最高峰はなんだろう?映画だ!」と。それで日本映画学校に行ったんです。

中野 まあ半分は就職活動からの逃避でもありました。そもそも僕はスピルバーグの映画や『ロッキー』とかを年に3~4本見る程度の映画の知識しかなかった。日本映画学校って今村昌平監督が作った学校じゃないですか。僕が入った年に今村監督の『うなぎ』がカンヌでパルムドールを獲ったんです。学校の入口に「祝! パルムドール!」と垂れ幕があるんだけど、僕“今村昌平”を知らなかったんですよ。
杉野 ははは(爆笑)。
中野 だから僕の人生が変わったのは、学校に入ってからです。初めて物語を書いて、初めてカメラを持って、映画のおもしろさに気づいた。卒業制作で「今村昌平賞」という学校で一人しかもらえない賞をもらったんです。「これはイケるんじゃね?」と。
杉野 それで卒業後、助監督として現場に。
中野 そうです。で、打ちのめされるわけです。

杉野 まあ助監督の仕事はしんどいですからね。
中野 何本やっても怒られまくりでうまくいかないんです。決定打は映画『折り梅』のとき。僕、助監督をクビになったんです。
杉野 ええ!? こんなに人がよくて、優しい人が、なぜまた。
中野 僕ね、使えないんですよ。芝居を見ているのが楽しくて、満足して、終わって先輩に「量太、バミリ(出演者の立ち位置を示すテープ)はがしとけよ!」と、何度言われても忘れちゃう。さすがに自分でも「こりゃダメだ」と。自分から助監督を辞めました。で、完全に映画の世界からドロップアウトしてしまった。ここから約4年間は暗黒時代でした。

杉野 その間はどうしてたんですか。
中野 テレビの料理番組などを作ってました。でも、映画の世界に戻りたくて2005年に『ロケットパンチを君に!』という自主制作映画を撮ったんです。賞もいろいろいただけて、「ん? オレ、やっぱりイケる?」と(笑)。
杉野 ははは。それが『湯を~』につながっていくんだ。
中野 でも僕は撮りたいものがないと撮れないし、脚本を徹底的に詰めるので、そこからさらに10年かかりました。

中野量太 なかのりょうた 映画監督。1973年生まれ。京都府育ち。脚本・監督作品に『チチを撮りに』『琥珀色のキラキラ』など。商業映画デビュー作となった『湯を沸かすほどの熱い愛』が第40回日本アカデミー賞優秀監督賞を筆頭に数々の賞に輝く。

中野 『湯を~』は、オリジナルで商業映画デビューできるチャンスを頂いて、悩んで考えて納得できる脚本が書けるまで3年くらいかかった。これがダメなら映画の世界は考え直そうと、テレビの仕事もやめて退路を絶ちました。
杉野 映画の主演は宮沢りえさんをイメージしてたんですよね。
中野 まさかOKが出るとは。脚本を読んでもらえれば、とは思いましたけど「新人だし…」って。
杉野 たしかに監督が新人だと、我々は脚本で口説くしかない。今回は脚本を読んで「いけるんじゃないか」と思いました。それほど脚本が素晴らしかった。

杉野 監督は「家族」をテーマにしていますよね。
中野 昔から「家族ってなんだろう?」という思いがあって。僕は6歳で父を病気で亡くし、兄と母子家庭で育ったんです。
杉野 そうだったんですか。
中野 身近にやはり両親を早くに亡くした従姉妹もいて、彼女ら二人を姉のように慕って育ってたりもして。ちょっと変わった環境で、でも、決して家族に対して負の感情はなく、純粋に「家族っておもしろいな」と感じていた。ただ、現実に身内の死も多かったし、そのなかで、残された人がどう生きていくかがテーマとしてあります。僕、34歳のとき実体験を基に短編を撮って、それで自分の映画のスタイルを見つけたんです。

杉野 剛 すぎのつよし キャスティングディレクター。黒澤明監督に師事し、『乱』『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』で助監督を務める。その後、キャスティングに転向。近年では『娼年』『ばぁちゃんロード』、公開中の『ラプラスの魔女』にも参加。

中野 あるとき母から電話があり「量太、今日何の日か知ってる?」と。「知らん」と言うと母は嬉しそうに息子に言うんです。「お父さんの命日。お母ちゃん25年以上たって初めて命日を忘れた!」と。
杉野 ほう。
中野 そのときに感じた感覚はすごく強烈で、「あ、これやな」と思った。この言葉にできない感覚を、映像にしたい。「こんな表現、見たことない。でも、この“感覚”は人間としてわかる」――僕はそういう映画を撮りたいんだと。
杉野 『湯を~』はまさにそれを感じましたよ。次作も楽しみです。
中野 2本、構想してます。まだまだ時間はかかりますけど(笑)。

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