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杉野 三島監督が映画監督を志したそもそもの出発点は?
三島 映画監督という仕事を意識しだしたのは10歳くらいです。ただ、遡ると4歳の頃に父と名画座の大毎地下劇場で観た『赤い靴』がすべての始まりだったように思います。
杉野 4歳で『赤い靴』ですか。イギリス映画ですよね。
三島 アンデルセンの童話をモチーフにしたバレエダンサーのお話なのですが、主人公がバレエ団の団長にプリマと結婚の二択を迫られ、選びきれずに列車に飛び込んでしまうというラストなんですね。人の死もわからない4歳には衝撃が大きくて、毎日眠れなくなってしまいました。
杉野 強烈な映画体験ですね。
三島 それから、チャップリンやトリュフォーなどの名画を観るようになりました。
杉野 監督としての下地ができていったわけですね。
三島 そして、少し重い話になってしまうのですが、6歳の頃に路上で知らない男性から性的被害を受けました。そこから「自分は汚れてしまった」「自分なんて生きる価値がない」と思うようになってしまったんです。

杉野 そうだったんですね。
三島 その時、『赤い靴』を思い出して。主人公は自死を選んだけど、私はまだ選んでいない。いつでも死ねるのであれば、とりあえず生きてみるか、と。
杉野 ある意味では映画に救われた。
三島 はい。必ずしもハッピーエンドが誰かを救うわけじゃないのかもしれません。自分が観つづけた映画の主人公たちは、世間とうまく折り合いをつけられず、悲しみや生きづらさを感じている。自分みたいな人間でもいいんだ、とりあえず、泣いたり笑ったり、生きていることは、おもしろいこともあるって事なんじゃないかなと思えるようになってきました。この世界は生きる価値があるのかもしれない、と。

杉野 そして10歳になりますよね。その頃に映画監督に興味を持つきっかけがあった?
三島 はい、そうなんです。北新地に大阪東映会館という映画館があり、そこで『風と共に去りぬ』のリバイバル上映がやっていたんです。映画では、ヴィヴィアン・リーが最初に白いドレスで現れて、最後は黒い喪服姿で終わるのですが、そこで、「生き抜くということはさまざまな色が混じり、黒くなっていく、つまり汚れていくことなんだ」と気づかせてもらいました。パンフレットの監督インタビューなども読んで、自分も映画を作れたらいいなと思ったのが最初です。

杉野 ただ10歳だとまだ遠い先の話ですよね。
三島 そうですね。父に話したらわかりやすく爆笑されました(笑)。中学や高校でも映画を作りたいなという思いを抱えながらバスケ部や文化祭の演劇に打ち込んで、その思いが結実したのは大学でしたね。
杉野 映画サークルに入られて?
三島 はい。私は神戸女学院大学でしたが、「全関学自主映画製作上映委員会」というインターカレッジサークルに入ったんです。脚本を書いて、お金を集めてきた人間が監督をやれるというサークルで、機材も一式揃っていて。声をかければ周りの人も手伝ってくれました。

三島有紀子 みしまゆきこ 映画監督。大阪市出身。2017年の『幼な子われらに生まれ』で、第41回モントリオール世界映画祭審査員特別賞、第42回報知映画賞監督賞、第41回山路ふみ子賞作品賞など多数受賞。その他の主な監督作品に『しあわせのパン』『繕い裁つ人』『少女』『Red』、短編映画『よろこびのうた Ode to Joy』『IMPERIAL大阪堂島出入橋』などがある。

杉野 良い環境じゃないですか。じゃあアルバイトをしながらお金を貯めて?
三島 撮りました。だから卒業しても、このまま働きながら自主映画を撮って生きていこうと思っていました。
杉野 でも、監督はNHKに勤めてらっしゃいましたよね。
三島 私、卒論がインドネシアの養護施設のルポルタージュだったんですけど、これをドキュメンタリーにできないかとNHK大阪放送局に企画書を持ち込んだんですね。

杉野 大学の卒業前に?
三島 はい。アポ無しだったので、当然、門前払いなんですけど、帰ろうとしたら一人の男性が追いかけてきて、話を聞いてくれたんです。今でもどなたかわからないのですが、その方から「企画自体は面白いから入社試験を受けてみたら?」と言われて、「じゃあ受けます」と。
杉野 まさに運命の出会いですね。その方がいなかったら入社していないわけですから。何年くらい勤めていたんですか?
三島 ディレクター職で採用されて、10年です。退職のきっかけは阪神大震災でした。神戸で取材をした後、「明日全てがなくなってしまうかもしれないのに、私はテレビ番組を作っていていいんだっけ?」と思ったんですね。それから何年も経ってからですが、退職しまして。辞めた日はものすごく空が青くて、今もその情景を覚えています。

杉野 剛 すぎのつよし キャスティングディレクター。黒澤明監督に師事し、『乱』『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』で助監督を務める。その後、キャスティングに転向。近年では『異動辞令は音楽隊!』『シン・仮面ライダー』に参加。

杉野 ただ、辞めてからの保証はないわけですよね。
三島 なかったですね。助監督として東映京都撮影所の撮影に呼んでもらったりもしましたが、30歳を過ぎていましたし、始動が遅れているという焦りが強かったので、同時にいろいろなプロデューサーに企画を出していました。そういったつながりもあって、最初にテレビドラマの監督をさせてもらったのが監督としてのスタートになりました。その放送をマツ・カンパニーの代表を務める松野さんが観てくださったみたいで、「この子は映画が撮れる」といろいろな人に話をしてくださり、『刺青 匂ひ月のごとく』を撮ることになるんです。
杉野 こうお伺いすると、運命に導かれている感じがありますね。
三島 ウロウロと困っていると有難いことにいつも救いの神が現れて、そこから道が開けたりする…。
杉野 本当にそうですよね。でも、それは監督の人柄や熱意も大きいと思います。今日はどうもありがとうございました。

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