FILT

杉野 監督はそもそもどういう形で映画と出会ったんですか?
内田 最初はジャッキー・チェンになりたかったんです。僕らの世代の男の子はみんなジャッキーが好きでしたから。ジャッキーもかっこよかったし、『プロジェクトA』のNGシーンを見た時に、これ全部撮っているんだって思ったんですね。映画を作るのって面白そうだなと。記憶があやふやでどっちが先か覚えていないんですけど、小学生の頃に白黒テレビで観た『ロッキー』では、ブルブルと鳥肌が立つような感動を初めて味わいました。
杉野 監督の子ども時代もまだ白黒テレビでしたっけ?
内田 リビングにあったカラーテレビは兄貴が独占していて(笑)。仕方がないから家の隅にあった古い白黒テレビで観ていました。それでも感動するんだから、すごいなと。中学ではサッカー部に入ったんですけど、後で友達から聞いたら中1の頃から「映画監督になる!」って言っていたらしいんです。僕が映画好きだということはみんな知っていましたから。

杉野 周りの友達にも映画好きということが浸透していたんですね。
内田 高校もサッカー部だったんですけど、少しでも時間が空いたら映画館に行ってました。時には学校を休んで1日4本観たり。みんな僕が異常なほど映画を観ていたことは知っていて。
杉野 高校を卒業した後の進路はどうしようと思っていたんですか?
内田 日芸の映画科を受けたんですけど、全く勉強していなかったから落ちて。当時はバブル絶頂期で、日本全体が留学ブームだったこともあって、アメリカの大学の映画科に行ってみようかなって。ラッキーなことに親も賛成してくれたので、まずはコミュニティカレッジに行き、そこから勉強してサンフランシスコ州立大学の映画科に編入しました。
杉野 日本で英語の勉強をしてからアメリカへ行ったんですか?
内田 いや、最初の1年半ぐらいは言葉がわからないから、「WOW」と笑顔だけで乗り切りました(笑)。

杉野 大学の映画科ではどんな勉強を?
内田 一般教養を学びつつ、映画の歴史や批評の仕方、照明、編集、演出、脚本などのベーシックな授業を受けていました。脚本は英語で書かないといけないんですけど、文法的ではないナチュラルな会話が書けないんですよ。だからト書きだけでサイレントの脚本を書いたら、めちゃめちゃ先生にほめられました(笑)。
杉野 他にいなかったんですね(笑)。卒業するまでに映画を撮ったりはしたんですか?
内田 脚本のクラスを取っていたので撮らなくても卒業できたんですけど、宿題で撮ったものはあります。

杉野 どんなジャンルの映画を撮ったんですか?
内田 シェアハウスのルームメイトに出てもらってコメディを撮ったんですけど、アメリカ人のクラスメイトたちが大爆笑してくれたんです。先生も僕のだけ2回流したりして。その時まで何となく映画監督になるって言っていたけど、これは絶対に撮るしかないなと。映画づくりの面白さに完全にやられましたね。寝食を忘れて作業したのも初めてで。でも、同時に自分には大した才能がないことも知ったんです。
杉野 脚本をほめられて、宿題で撮った作品もウケたのに?

内田けんじ うちだけんじ 映画監督。1972年生まれ、神奈川県出身。サンフランシスコ州立大学芸術学部映画科を卒業後、自主制作映画『WEEKEND BLUES』がPFFアワード2002で企画賞、ブリリアント賞をW受賞。その他の作品に『運命じゃない人』『アフタースクール』『鍵泥棒のメソッド』など。

内田 うれしかったけど、自分の限界も見えたような気がしたんです。これは、かなり一生懸命やらないと面白いものは作れないと思って、帰国後の3、4年ぐらいはひたすら脚本を書いていました。
杉野 ぴあフィルムフェスティバル(PFF)に自主映画の『WEEKEND BLUES』を出したのもその時期ですよね。
内田 はい。パソコンに詳しい友達が安く動画編集のできる環境を作ってくれたんです。コネも何もないから映画監督になるにはPFFで入選してスカラシップを取るしかないと思って、地元の友達の力を借りながら撮りました。

杉野 その作品が見事に入選してスカラシップ作品の『運命じゃない人』を撮り、高い評価を受けるわけですけど、帰国してからの数年間で何本ぐらい脚本を書いていたんですか?
内田 無数にありますけど、最後まで書き終えて形になったのは4、5本ぐらいだと思います。とにかく作品を成り立たせるためには、脚本は凝らないといけないなと思っていて。ただ、英語で脚本を書くのも大変でしたけど、日本語も選択肢が多いので難しいんですね。向田邦子さんや山田洋次さん、黒澤明さんの脚本を読んで勉強しました。
杉野 脚本を書きながら、いつかは撮りたいと思っていたんですね。

杉野 剛 すぎのつよし キャスティングディレクター。黒澤明監督に師事し、『乱』『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』で助監督を務める。その後、キャスティングに転向。近年では『リボルバー・リリィ』『シン・仮面ライダー』に参加。

内田 20代はかなり追い詰められていました。映画を撮りたいという欲望を手術などで取ってしまいたいなって。だけど、撮らなかったら絶対後悔することもわかっている。もう不治の病というか、呪いみたいなものですよね。アメリカにいた時に、映画ってその国を描くものなんだなと気がついたんです。いつか日本を描いた自分の映画が海外の人たちに受け入れられたら死んでもいいくらいに思っていたんですけど、『運命じゃない人』をカンヌ国際映画祭に出品して、その夢が叶っちゃったんです。だからといって、まだ全然満足はしていなくて、これからも面白い脚本を書きたいし、役者さんが「この役をやりたい!」と思うようなキャラクターを作りたいですね。

CONTENTS