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古市 今日は、日本でも映画が公開された『オッペンハイマー』の原作本について、いろいろお尋ねしたいと思っています。山崎さんは書籍の監訳をされて、上巻では解説も書かれていますね。この本は一言で言うと、どういう本なんでしょうか。
山崎 一言で言うと初めて原子爆弾を開発したオッペンハイマーという科学者の評伝ですが、実際に読んでみると、原子爆弾の開発ストーリーよりも、むしろその後の苦悩のほうに重きが置かれているのが特徴的です。私も最初に監訳を引き受けたときは、オッペンハイマーが科学者として原子爆弾の開発にどう関わったのかということが中心になるのかと予想していたんですが、そういう話は上巻でだいたい終わってしまうんですね。その後の中巻・下巻は、開発後のオッペンハイマーの苦悩、特に政治的な駆け引きに彼が苦しめられていく経緯が丹念に語られていきます。上巻に寄せた解説でも「本書の主題は原爆と科学というよりは、どちらかというと政治と共産主義である」と書きました。
古市 上巻の読みどころはどのへんですか。
山崎 やっぱり量子力学の黎明期を生き生きと描き出している点じゃないかと思います。

山崎 量子力学は現在では成熟した物理学の分野ですが、オッペンハイマーが子どもや青年だった時期に生まれた学問でした。だから上巻では、量子力学という学問の生い立ちが詳しく書かれているんですね。加えて、アインシュタインやボーア、ハイゼンベルクといった物理学界の有名人が続々と登場することも上巻の面白さの一つです。
古市 どうしてオッペンハイマーは原子爆弾の開発に関わるようになったんですか。
山崎 量子力学の研究をしていたオッペンハイマーのもとに、ドイツの研究者が原子を分裂させる実験に成功したという知らせが入ったんです。1939年のことです。
 原子って普通、水素は水素のままだし、酸素は酸素のままで変わらないんですよ。だからニュースを聞いたオッペンハイマーも、理論上そのような現象は不可能だということを証明し始めた。でも翌日、隣の部屋にいた研究者がその実験の再現に成功して、原子が実際に分裂することが確認された。
 これがオッペンハイマーが原子の分裂と中性子の過剰発生を目の当たりにした最初の瞬間です。同時に、彼はその現象をただの物理現象としてではなく、発電や爆弾製造に利用できるとすぐに気づいたんですね。

山崎 この出来事がきっかけになって、アメリカ政府が原子爆弾を開発するリーダーを探したところ、当時アメリカで原子核分裂の物理に最も詳しい人物はオッペンハイマーしかいないということになった。最初はリーダーとしての資質や性格が問題視されましたが、結局は彼にその役割が与えられることになった、というのが大雑把な経緯です。
古市 なるほど。オッペンハイマーが爆弾への応用に気づいてしまったんですね。
山崎 ただ、オッペンハイマーが気づかなかったら原爆が生まれなかったかというと、そんなことはないと私は思います。オッペンハイマーは最初にその可能性に気づき、原子爆弾の開発を牽引した一人に過ぎません。この可能性は普通の物理学者だったら簡単に気づくことができるものでしたし、基本的なアイデアだったら、私でも提案できる程度のものです。

古市 さきほど、中・下巻では、オッペンハイマーの苦悩が描かれているという話でしたが、やっぱり罪悪感にさいなまれたということでしょうか。
山崎 そうですね。オッペンハイマーは「わたしは手が血で汚れているように感じます」と、トルーマン大統領に語ったシーンが中巻に出てきます。開発時は作ることに精一杯でしたが、実際に爆弾が使用された後、現場の写真を見ると悲惨な光景が広がっている。何万人もの人々が自分のせいで亡くなったことにオッペンハイマーは悩み苦しみました。戦後のオッペンハイマーは、原子爆弾や水素爆弾の開発には反対していました。

古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『誰の味方でもありません』『絶対に挫折しない日本史』『楽観論』『10分で名著』『正義の味方が苦手です』『謎とき 世界の宗教・神話』など。また、小説家としても活動しており、著作に『奈落』『アスク・ミー・ホワイ』『ヒノマル』など。

古市 でも、水素爆弾の開発に反対したせいで、共産主義だという疑いが強まってしまったんですよね。
山崎 まさにその通りで、当時はソ連との対立が非常に激しかった中、オッペンハイマーは共産主義のスパイではないかという疑いをかけられてしまいました。水素爆弾の開発を遅らせるのはソ連にとっては有利なことなので、「ソ連の味方をしている」という嫌疑をかけられ、「赤狩り」の的になってしまった。そのあたりのことが下巻で詳しく書かれていますが、正直、読むのが辛い箇所でした。
古市 上・中・下3巻というのは、本としてはかなりのボリュームですが、読みやすさはどうですか。
山崎 私の場合は監訳を担当したため、ざーっと読むだけでは済まされないんですね。読み進める中で「ここがおかしい」と感じる箇所を見つけると、それらを全てメモしなければならない。だからすべて読み終えるのに4週間くらいかかり、約2000箇所の疑問点を書き出しました(笑)。ただ、一般の読者であれば、読むスピードにもよりますが、速い人ならば3日あれば読めるかなという気はします。でも内容自体は、けっこう難しいと思いましたね。
古市 物理学の話が出てくるからですか。
山崎 もちろんそれもあります。上巻は量子力学の話がどんどん出てきますから。後半の共産主義や政治的な話題も、その方面のことについて知っていないと、読み進めるのに苦労します。その点ではこの連載の企画にはぴったりの本だという気がします。

山崎詩郎 やまざきしろう 物理学者。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。東京工業大学理学院物理学系助教。量子物性物理学の研究で日本物理学会第10回若手奨励賞を受賞。著書に『独楽の科学』『実験で探ろう!光のひみつ』、監修書『クリストファー・ノーランの映画術』、監訳書『オッペンハイマー』など。映画『TENET テネット』では字幕科学監修を務める。

古市 オッペンハイマーから逸れてしまいますが、現代の科学はどうなんですか。まだまだ進歩していきそうでしょうか。
山崎 大きく分けて二つの見方があります。一つはめちゃめちゃ生き生きしているという見方です。一つの謎が解明されると、新たに二つの謎が現れ、それを解くとさらに四つの謎が出てくるという具合に、謎が謎を呼び続けている。一つ一つが解明されるたびに新たな謎が生まれるので、科学者の仕事が尽きることはないと。
 でも、その一方で専門家の中には、最終的にはすべてを解明できないのではないかという絶望感を抱く人もいます。ひょっとしたら科学には原理的に解明不可能な領域があるのかもしれない。もしそうだとすると、ゴールのないマラソンみたいな感じなので、ちょっと絶望感がありますよね。
古市 解けないと思われている謎ってどういうものですか。
山崎 物理学ってさまざまな法則を発見してきましたが、最後には、すべてを説明できる究極の法則、よく「万物の理論」と呼ばれるものを求めているのが理論物理学者なんですね。

山崎 学者はこの万物の理論が単一であるという信念をもって研究を進めているわけですけど、実際には究極の法則は一つに限らず、無限にある法則のうち、たまたまこの宇宙に関する法則になっただけなんじゃないかということが解明されつつあるんです。
古市 万物の理論は、山崎さんはあると思っている派なんですか。
山崎 あってほしいけれども、たぶんないだろうと思っている派ですね(笑)。この宇宙という限定なら万物の理論はあると思います。だけど、それはたまたまこの宇宙ではこの理論だっただけであって、他の宇宙では違う理論がありえることは私もいろんな本を読んでちょっとずつわかってきました。そうだとすると、ちょっとつまんない状況になっているのかなって気がしますね。

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