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古市 「宗教」を包括的に理解する手がかりとして、エリアーデの話を聞きたかったんです。彼の代表作『聖と俗』は、一言でいうとどんな本なんですか。
岡本 この本を実際に手に取るとわかるんですが、4つの章はすべて「宗教的人間にとって」とか「宗教的人間の振舞い」といった言葉で始まっています。要するにエリアーデから見たら、人間は本来、宗教的なんですね。人間は常に聖なるものを求めている。そういう宗教的人間にとって、世界のありとあらゆるところは聖なる意味に満ちているし、それをさまざまなシンボルを通じて感知しているんだということが書かれています。
古市 『聖と俗』には、さまざまな宗教を包括するような視線もあるんでしょうか。
岡本 それはあります。キリスト教や神道、仏教、ヒンドゥー教などさまざまな宗教があるけれど、あらゆる宗教には何かしら共通するパターンや特徴があるはずだと。その共通点を見つけて、それがどういうふうに発展したかという法則を解明するのが宗教学なんだというのが、エリアーデの基本的な構えです。

岡本 だから書き方はけっこう乱暴なんですよね。同じ段落でエルサレムと中国とイランの聖地をまとめて論じたりと、いきなり全然違う時代と地域の宗教の話が出てきたりする。そして「以上見てきたように共通点がある」みたいな論述の仕方です。今だったら、卒業論文でも怒られるでしょうね(笑)。
古市 でも代表作ですから、それに勝る魅力があったということなんですよね。
岡本 エリアーデは天才なので、共通パターンの見つけ方がすごいんです。世界の軸とか植物が天に向かって登っていくのは、聖書でいうヤコブの梯子と一緒だみたいな感じで、思わぬ共通点を次々とつないでいく。そういう連想ゲームの達人なんですね。
古市 文献を読み解いて実証するというより、シンボルを見いだすのが得意だったわけですか。
岡本 まさにシンボル探しがエリアーデの方法論です。でもそれをどうやって探すかといったら、彼はアームチェアタイプなのでとにかく文献を渉猟する。エリアーデは8ヵ国語ぐらいの読み書きが完璧にできるんです。サンスクリット語もヘブライ語もペルシャ語も全部読める。だから古今東西の本を片っ端から読んで、さまざまな宗教の特徴を押さえた上で共通点を大量に探し出すわけです。

古市 エリアーデは、聖なるものと俗なるものをどのように考えているんですか。
岡本 古市さんは社会学を研究されているのでわかると思うんですけど、『聖と俗』というと、普通はそれぞれ社会的に構築されたものだと捉えますよね。たとえば、フランスの社会学者・デュルケームが典型的で、社会的にタブーとされている場所、「あそこに行くと呪われる」といった言説によって守られた場所が聖なる場所であるというかたちで定義します。
 それに対してエリアーデの場合は、聖なるものは、別に俗なるものと比較して存在するわけではなく、聖なるものはそれ自体で聖なるものなんだと、『聖と俗』の最初に書いてあるんですね。だから聖なるものはそれ自体として顕れてくるし、本来、宗教的である人間はそれを本能的に感じ取れる。エリアーデの議論はすべてここからスタートするんです。

古市 『聖と俗』は、彼のキャリアでいうとどういう位置づけの著作なんですか。
岡本 一番脂が乗っている時期の代表作といっていいでしょうね。彼は1956年にシカゴ大学に招かれ、『聖と俗』を1957年に出版します。その後の60年代、70年代がエリアーデの全盛期なんですが、その時代のアメリカって、キリスト教や近代社会を批判して、それに代わるオルタナティブを見いだそうというニューエイジ文化が盛り上がっていました。そういうニューエイジ方面の人が、キリスト教以前の本来の人間の姿を探究している知識人という感じでエリアーデを持ち上げたんですね。

古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『誰の味方でもありません』『絶対に挫折しない日本史』『楽観論』『10分で名著』『正義の味方が苦手です』など。また、小説家としても活動しており、近著に『奈落』『アスク・ミー・ホワイ』『ヒノマル』など。

古市 岡本さんが書いた『宗教と日本人』では、現代の日本人が縄文文化を崇める現象と絡めてエリアーデを論じていたのが印象的でした。
岡本 『宗教と日本人』で扱ったのは、エリアーデがまったく知らないような縄文文化にすらエリアーデの議論が適用されていることを示したかったんです。縄文人は自然と共生していたという現代の神話は、エリアーデ的な議論の再生産なんですね。
 現代の縄文ブームのベースには、アニミズム礼賛があります。アニミズムという言葉は、仏教や神道という特定の宗教を超えた、より普遍的な日本の宗教的世界観を指摘できるわけですよね。これはエリアーデの「宗教的人間」と言ってることは一緒です。すなわち、日本人は山や岩、雷や風など、あらゆる自然の中に人格を読み込む力がある。だから自然を支配するキリスト教に対して、日本人は世界に先駆けて環境を保護する精神性を持っている。実際、縄文人もそうでしたよね、みたいなロジックになっているわけです。
 でも縄文研究の考古学者、山田康弘先生が指摘しているように、縄文人は別に自然と共生してたわけじゃなくて、共生せざるを得なかっただけです。当時の人口を考えれば、自然を破壊するほど人もいなかったでしょうし。
古市 縄文人が自然と暮らさざるを得なかったって、言われてみればたしかにそうですね。
岡本 当たり前の話なんですよね。アニミズム信仰にせよ、縄文ブームにせよ、今生きている社会がおかしいと感じている人たちが、その対極の姿を昔の社会に見いだして、過去の信仰を想像的に作り出しているわけです。

岡本亮輔 おかもとりょうすけ 宗教学者、北海道大学大学院教授。1979年生まれ、東京都出身。専攻は宗教学と観光学。筑波大学大学院修了。博士(文学)。著書に『聖地と祈りの宗教社会学―巡礼ツーリズムが生み出す共同性』『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』『江戸東京の聖地を歩く』『宗教と日本人―葬式仏教からスピリチュアル文化まで』など。

古市 『聖と俗』を読むにあたって、これを押さえておけば読みやすくなるようなポイントって何かありますか。
岡本 先ほども言いましたが、『聖と俗』は、人間は本来的に宗教的人間であるとか、宗教には全部共通するパターンがあるということが議論の前提になっています。この点さえ踏まえておけば、入っていくのは難しくないと思いますね。
古市 現代の人がエリアーデを読む意義って何でしょうかね。
岡本 まずその想像力の高さは、いま読んでも本当に面白いと思います。その点では、『聖と俗』もそうですけど、エリアーデは小説も書いているので、小説から手に取ってみるのもいいんじゃないでしょうか。エリアーデが発見した宗教に共通するパターンって、小説のモチーフのようなものなんですよね。エリアーデ自身も、現代の映画や小説は実は小さい神話を繰り返している、といった趣旨のことを言っています。たとえば『スター・ウォーズ』や『ハリー・ポッター』『アベンジャーズ』もエリアーデ的に見ると、またちょっと違う見え方ができるかもしれません。

岡本 あともうひとつは、全部の宗教に共通するパターンがあるとか、人間は宗教的人間なんだという話は、煎じ詰めると、人類には共通の要素があるということですよね。これって実は、反宗教的な科学者の考え方と通底しているんですよ。
 たとえば、進化論で有名なリチャード・ドーキンスは、宗教現象は自然科学で完璧に説明できる、人間はすべて生物学的に共通する特徴を備えていて、進化論的に道徳や倫理も導けるんだと強く主張しています。宗教に対するスタンスは真逆なんですが、エリアーデもドーキンスも、人間には共通の要素があると考えている点では同じなんです。
古市 たしかにドーキンスぐらいになると、進化論的な説明力が強過ぎて、一つの宗教みたいになっちゃっているところもありますよね。
岡本 まったくその通りです。しかも、彼が批判する宗教はキリスト教のように信仰重視の宗教に特化しているためか、彼自身が原理主義化しているところが面白いところですよね。

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