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古市 『西遊記』は日本でもテレビドラマになって何度も放映されていますが、オリジナルの『西遊記』ってどういうものなんでしょうか。
吉村 基本となるのは、16世紀末の明の時代に成立した全100回、つまり100章の長編小説です。石から生まれた孫悟空が仙術や神通力を身に付けて天界で大暴れしますが、お釈迦様に捕まって山に封じ込まれる。これが1~7回の導入パートです。その後、場面が変わり、天竺にいるお釈迦様が観音菩薩に命じて、唐から天竺までお経を取りに来る者を探させます。そこで選ばれたのが三蔵法師であり、そのお供として孫悟空たちが選ばれるわけです。これが8回~12回のところです。そして第13回からようやく旅の物語になって、延々と100回まで続きます。
古市 オリジナルの小説では、最後はどうなるんですか。
吉村 大冒険の旅を終えて、一行は天竺の大雷音寺にたどりつき、そこでお釈迦様と会うんです。お釈迦様は「よく来た、よく来た」と歓迎して、5048巻のお経を三蔵法師に授けます。お経をもらった一行は、八大金剛という神様の力で、空をひとっ飛びして唐の長安に帰り、太宗皇帝にお経を届けます。それでまた天竺に舞いもどるんですね。
古市 最後になって行ったり来たりとせわしないですね。

吉村 それまでの87回の大冒険はなんだったんだと(笑)。天竺に戻った一行を迎えたお釈迦様は「よく使命を果たしましたね。あなたたちはこれから天上界に生まれ変わるのです」ということを言って、天界の職を授けます。たとえば三蔵法師は栴檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)、孫悟空は闘勝戦仏(とうせんしょうぶつ)という仏様になって成仏するんです。
 そもそも三蔵法師や孫悟空、沙悟浄、猪八戒はもともと天界で仕事をしていたんですが、罪を犯して地上に落とされたという設定になっています。だから彼らは地上で苦労して善い行いをしたので、天界に再び生まれ変わった、というプロットになっています。
古市 三蔵法師のモデルになっている玄奘は、どういう人物だったんですか。
吉村 七世紀、唐の時代の仏教者です。玄奘三蔵ともいって、三蔵とは「経」「律」「論」という三種類のお経に精通したお坊さんに対する尊称のことです。玄奘は、17年半をかけて中国からインドに渡り、お経を取って帰ってきました。自分で『大唐西域記』という旅行記を書いているほか、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』という伝記にも旅の様子が詳しく書かれています。こちらは冒険物語的な要素もありますね。

古市 『西遊記』といえば孫悟空という猿のキャラクターが有名ですが、何か元ネタはあるんですか。
吉村 じつは最近、孫悟空・猪八戒・沙悟浄のルーツに関する論文を書いたんです。孫悟空は、インドの猿の神ハヌマーンじゃないかとか、古代中国の猿の妖怪である無支祁(むしき)じゃないかとか、いろいろ言われています。しかし古い時代の玄奘三蔵の肖像画を見ると、脇に顔色の蒼い男が描かれているんです。これは肌色の違う異国人の従者だと思いますが、この従者がさまざまな肖像画で描かれていくうちに、猿顔になっていきます。こうした変遷をふまえて、あくまで私の考えですが、玄奘三蔵の旅に同行した異国の若者こそ孫悟空のルーツなんじゃないかと。
古市 面白い! モデルが実在したかもしれないんですね。

古市 玄奘の旅がそうやって伝説化して、物語として人気になったのは、それだけ魅力的な旅だったということでしょうか。
吉村 そうですね。当時、個人の力で中央アジアやインドを見聞し、さらに生きて帰ってきて記録として残すこと自体がまれだったので、玄奘三蔵自身は歴史上のスーパーヒーローです。もちろん仏教史の中でも、たくさんのお経を翻訳しているという点で重要人物ですが、そんなことを知らない人でも「インドまで行って帰ってきた偉いお坊さんだ」と直感的にすごさがわかりますよね。
古市 宗教者でありながら冒険家でもあったわけですね。
吉村 インディ・ジョーンズに通じるとことがあるかもしれませんね。

古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『誰の味方でもありません』『絶対に挫折しない日本史』『楽観論』『10分で名著』など。また、小説家としても活動しており、近著に『奈落』『アスク・ミー・ホワイ』『ヒノマル』など。

古市 玄奘がそこまで冒険してインドに行ったのは、何か特別な目的があったんですか。
吉村 ええ。それが「唯識」という仏教の教理です。唯識は、隋から唐の初めぐらいに中国でもすごく流行しているんです。でも、戦乱の時代に翻訳されているものなので、翻訳がよくない。読んでもよくわからないんですね。それで玄奘ははるばるインドまで、唯識を追い求めていったんです。
古市 唯識を一番シンプルに説明すると、どうなるんでしょうか。
吉村 唯識の「識」は心という意味なので、心だけということですよね。つまり、「私たちが見ているあらゆる存在は、自分の心が作り出したものである」とみる思想が唯識です。仏教では通常、「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」の五識と、それを言葉で統合する「意識」を加えた六識で心を説明します。ところが唯識では、それ以外にも深層心理のような心があると考える。それが「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)」です。
 末那識は今の心理学で言うエゴ、自我意識のようなもので、他人と自分を区別して自分を中心に物事を見ようとする心です。一方、阿頼耶識は自分自身のあらゆる過去の経験を貯蔵する心です。記憶にあることだけでなく、前世の経験や幼いころの経験もすべて貯蔵されている。この阿頼耶識に蓄えられた過去の経験が、六識や末那識が生じる基盤となるし、六識や末那識に基づいて行った現在の経験がまた阿頼耶識に蓄えられていく。だから我々は、過去の経験に影響された色眼鏡で世界を見続けてしまうわけですね。

吉村 誠 よしむらまこと 駒澤大学教授。1969年生まれ、東京都出身。早稲田大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。専門は中国仏教思想史、唯識学。主な著書に『中国唯識思想史研究―玄奘と唯識学派―』、編著に『玄奘三蔵と薬師寺』、訳書に『続高僧伝Ⅰ』などがある。

古市 『西遊記』に戻りますが、全訳は出ていますか。
吉村 あります。明代の100回本は中野美代子先生が翻訳して、岩波文庫から10巻本が出ています。君島久子先生の福音館文庫の3巻本も名訳です。いろいろ読み比べてみるといいですよ。
古市 ドラマ化されているものは原作とけっこう違うんですか。
吉村 日本のドラマに関しては、日本のエンターテインメントに変えて作られているところはありますね。
 ユニークなのは、女性が三蔵法師を演じていることです。最初に演じたのは夏目雅子さんですが、これは日本オリジナルなんですよ。その後、日本では女性がずっとドラマで三蔵法師をやっていく伝統ができましたから。他にも沙悟浄をカッパにしているのも、日本独自です。カッパは中国にはいませんからね。
古市 僕らがテレビで知っている『西遊記』は、けっこう日本独自の要素があるんでしょうね。
吉村 そうなんですよ。猪八戒は原作を読むと黒豚ですからね。

古市 リメイクされ続けるのは、元々の物語の強さがやっぱりあるからでしょうか。
吉村 そう思います。プロットさえあれば、あとはいかように中身をいじっても西遊記っぽくなる。とにかくプロットが魅力的なんでしょうね。どんな役者が演じるか、どんな演出をするかは、割と自由な感じがしますね。
古市 たまたまいま残っている100回のものをオリジナルとして崇めがちですけど、実際は何百年もかけて変わってきた物語でもあるわけですよね。
吉村 そうなんです。だから私たちは、プロットさえ西遊記っぽかったら、どんな西遊記物語でも受容していいと思うんです。ただ、オリジナルの『西遊記』を読むと、どうして食事にそんなにこだわるのかとか、親子関係をどう考えるのかとか、何のために人は生きているのかとか、漢民族の人間関係のあり方や価値観が本当によくわかります。中国文化のエッセンスが凝縮しているので、読むだけの価値はあると思います。

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