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古市 本当に基本的なことから聞きたいんですが、『古事記』って、いつ誰が何のために書いたのか、わかっているんですか?
三浦 それが一番大きな問題です。『古事記』は、上、中、下という三つの巻物からできています。上巻は神々の時代のお話です。中巻と下巻は、初代の天皇から33代の天皇までの系譜と事績が書かれています。
 この上巻の冒頭に「序」が付いていて『古事記』編纂の経緯が書かれているんですね。天武天皇は、国の歴史がバラバラに伝えられていて、このままでは真実がわからなくなってしまうことを懸念した。そこで天皇は正しい歴史を後世に伝えようと決心して、側近で記憶力に長けている稗田阿礼に正しい歴史を暗記させた。
 ところがその後、天武天皇が亡くなり、事業は中断してしまった。放置したままでは、せっかくの天武天皇のプロジェクトも水の泡に帰してしまいます。それを案じた元明天皇が、稗田阿礼が覚えたことを書物のかたちにまとめるように太朝安万侶に命じて、『古事記』はできあがったんだと。
古市 序文を素直に信じるわけにはいかない?
三浦 ほとんどの人はこの序文を信じていますが、私は、これは嘘だと主張しているんです。

古市 どのへんが怪しいと思うんですか。
三浦 まず、序文が書かれたのも712年ということになっていますが、実際はそこから100年くらい経った後に付けられたのではないか、と考えています。本文については、使われている言葉遣いが非常に古い。本文の原型は7世紀半ばぐらいに書かれたものだと思います。
古市 三浦さんの考えどおりだと、『古事記』の位置づけも変わってきませんか。
三浦 そのとおりです。『古事記』の「序」を私が怪しいと思っている理由は、『日本書紀』というもう一つの歴史書と関係しています。こちらは古代ヤマト王権が公式の歴史書として編纂したものであることがはっきりしているんですね。天武天皇は、681年に臣下や皇子たちを集めて編纂の大号令をかけた。そして720年に全30巻の『日本書紀』が完成しました。この編纂を命じたのと同じ年に天武天皇は律令(法律)の制定も命じています。こういう時代背景をふまえると、『古事記』の「序」が非常に不自然に感じられませんか。同じ天武天皇が、「正式の歴史書を作れ」と皇子や臣下に号令をかけながら、同時に、稗田阿礼に、正しい歴史を暗記させようとしているんですから。
古市 正式の歴史書なんて一つあれば十分ですよね。むしろ当時の政権からすれば一つだけのほうがいいかもしれない。

古市 『日本書紀』と『古事記』は重複する部分も多いんですか。
三浦 かなり重複していますけど、明確な違いもあるんですね。『古事記』上巻では、出雲を舞台とした神話に大きなボリュームが割かれています。ところが『日本書紀』には、この出雲神話にあたるパートがほとんどない。
古市 本当ですね。なぜ、こんな違いがあるんですか。
三浦 『日本書紀』は、国家の正史ですよね。国家の正史にとっては、自分がやっつけた出雲の世界はもう語る必要はない。出雲なんて、征服した田舎の国の一つでしかありませんからね。それに対して『古事記』は、出雲を語りたいから神話を語っているように読めるのです。実際、『古事記』上巻のうち、4割以上が出雲の神々の話なんです。つまり負けて滅ぼされた側の神々を主体にして描いているのが『古事記』なんじゃないか、というのが私の考えなんです。

古市 『古事記』で語られる神話には、他の国々や地域の神話と似ている部分もありますか。
三浦 もちろんあります。たとえばニニギという神様が天上の世界から、地上の山にドーンと降りてくる。こういう垂直的な世界観は朝鮮半島など北方系の王の建国神話と共通しています。だから、これは北方系の人が持ってきたもので、弥生系の神話だろうと。
古市 それが「弥生系」ということは縄文系もあるんですか?
三浦 それが出雲神話です。縄文系は、海の向こうに神の世界があるという水平的な世界観が基調になっています。ですから、非常に古い縄文系の水平的な世界観と、弥生系の垂直的な世界観が混在しているのが『古事記』の面白いところです。

古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『平成くん、さようなら』『誰の味方でもありません』『百の夜は跳ねて』など。

古市 『古事記』は、完成した後どのように読まれてきたんですか?
三浦 それが『古事記』というのは、長い間ほとんど読まれた痕跡がないんです。そこも『日本書紀』と大きく違うところです。『日本書紀』は正史ですから、役人たちは必ず読まなきゃいけない。でも『古事記』は宮中で公式に読むようなことをまったくしてない。それから写本の伝わり方も極めて薄い。『日本書紀』だと平安時代の写本が残っているけれど、『古事記』は一番古い写本でも1340年頃です。
古市 じゃあ、『古事記』がメジャーになったのはいつからですか。
三浦 決定的なのは、本居宣長が『古事記伝』という注釈書を書いたことです。それまではほとんど一般の人が読む機会はなくて、ごく一部の宗教者や知識人が読んでいた程度です。
 本居宣長は18世紀に『古事記伝』を書き、それが国学の象徴のようになって、明治以降の近代天皇制とも結び付けられて特別視されていくわけです。それが『古事記』のいちばん不幸な読まれ方だったと私は思います。戦争翼賛の助太刀のように読まれてしまったわけですから。
古市 本居宣長の読み方自体はどうなんですか。後世の読者に大きな影響を与えたんでしょうか。
三浦 もちろんですね。それがないと、『古事記』を正確に読むことはできなかった。現代の『古事記』解釈も、本居宣長の『古事記伝』が一番基礎になっていることは確かです。ですから思想の問題は別にして、文献を正確に読むという点では本居宣長の功績は極めて大きいと思います。

三浦佑之 みうらすけゆき 古代文学者。1946年生まれ、三重県出身。千葉大学名誉教授。千葉大学教授、立正大学教授などを歴任。『古事記』研究の第一人者。著書に『古事記・再発見。 神話に隠された神々の痕跡』『古事記学者ノート(コジオタ ノート)』、近刊に『古事記神話入門』(文春文庫、11月刊行)など。

古市 不幸な読まれ方をされた時代はあったにせよ、現代人が『古事記』を読めるのはラッキーと思ってよさそうですね。
三浦 ええ。『古事記』と『日本書紀』の両方があることは、歴史を考えるうえでも、物語を読むうえでも非常に貴重な財産になっていると思います。
古市 それにしても、『古事記』が書かれた目的はいったい何なんでしょうね。
三浦 さまざまな記述が殺された側、滅ぼされた側に視点を置いていることからも、『日本書紀』のように国家支配の正統性を示すためのものではないことは明らかです。かといって、滅ぼされた側の人間が書いたとも思えない。そう考えると、ヤマト王権の周縁にいて、中のことも見えているような宗教的な語り部のなかで、『古事記』の原型はできたんじゃないかと私は思っています。そういう語り部が、悲劇の物語を語り継いだ。それは一つには鎮魂のためじゃないでしょうか。

三浦 『古事記』を読むと、北から来た人、南から来た人など、いろんな人たちの発想がまじりあっていることがわかります。この国は多様な人や発想がミックスしてできあがった。『古事記』は日本列島、日本人の多様性に気づかせてくれる書物でもありますね。
古市 しかもまだわからないことがたくさんあるから、想像力が刺激されますね。
三浦 読むと余計にわかんないことが増えるし、それが面白い。古典の名著には、みんなそういうところがあります。だから勝手なことが言えるわけですし(笑)。

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