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古市 聖書を読みたいと思って手にしても、なかなか最後まで読み通せる人って少ない気がします。『新約聖書』の最初なんて、人名ばかりが並んでいますし。
佐藤 相当の情熱がなければ無理ですね。古市さんがいうように、『新約聖書』は「マタイによる福音書」の冒頭で挫折する作りになっています。簡単に読めたら、聖書を読むことを商売にしている神父や牧師の仕事がなくなるじゃないですか。そういった専門家の職業をつくるためにも、簡単に読めてはいけないつくりになっているんです。
古市 それでも読んでみようと思う場合、どこから読むのがいいですかね。
佐藤 一般の人におすすめなのはマタイ、マルコ、ルカという3つの「福音書」と「使徒言行録」「ローマの信徒への手紙」「ヨハネの黙示録」あたりですね。これだけでも6本あるから、けっこう大変です。もっと絞るなら「マタイによる福音書」がいいと思います。福音書は、イエス・キリストの言行を記した文書で、マタイ、マルコ、ルカの3福音書を「共観福音書」といいます。なぜそう呼ぶかというと、根っこにある伝承やテキストがほぼ一緒だからです。

古市 3つの中でなぜマタイがおすすめなんですか?
佐藤 キリスト教の思想を説明するときに引用される箇所が多いし、文章も教会の礼拝で読むような、きれいな文章で書かれているからです。マタイは、『新約聖書』の最初に置かれていますよね。でも成立した順番でいうと、マルコが一番早いんです。じゃあなぜ最初にマタイが来ているかというと、教会で読むことを想定して書かれているからです。
古市 福音書はマタイ、マルコ、ルカのほかに、ヨハネがありますよね。この4つはどういう関係になっているんですか。
佐藤 「マタイによる福音書」はオリジナル資料+マルコによる福音書を使っています。そしてもう一つ、Q資料というものがある。これは「イエスの言行録」と呼ばれている幻の福音書です。Qというのはドイツ語のQuelle(クヴェレ=資料)のことで、その頭文字を取ってQ資料と呼ばれています。ルカはオリジナル資料とマルコによる福音書とQ資料からできていると推定されます。そして、マルコにはない物語だけれどマタイとルカに共通している物語がいくつもあります。この3つの福音書に共通する重要な目的は、「神の国に入る」ということです。

佐藤 それに対して、ヨハネによる福音書は別系統で、3つの福音書を読んでいないヨハネ教団がつくったものです。こちらの目標は「永遠の命を得る」ことなんですね。キリスト教の歴史から言うと、カトリック教会とプロテスタント教会は共観福音書を好み、正教会はヨハネによる福音書を好みます。
古市 神の国に入ることと、永遠の命を得ることはかなり違いますよね。その違いをキリスト教ではどういうふうに整理しているんですか。
佐藤 それは整理できません。他にも、たとえば国家権力とどうつきあうか。「ヨハネの黙示録」13章では「戦え!」というメッセージになっている。ところが、「ローマの信徒への手紙」13章だと、「人は上からの権威に従うべきです」とあるんです。こういうハイブリッドだと臨機応変に使えますよね。だからキリスト教は長持ちしているんです。

古市 そもそも『新約聖書』ってどんなふうにできあがっていったんですか。
佐藤 簡単な歴史を話すと、最初は誰も聖書を作る気はなかったんです。どうしてかというと、イエスは「私はすぐに来る」と言って天に昇って行った。だから信者は、すぐに来ると思ったんだけど、来ないんですよ。これを神学的には「終末遅延」と言います。もういまの段階だと、約2000年遅れています。当時も、60~70年経って「もしかしたら俺たちの世代には来ないかもしれない」と真剣に心配する人たちが出てきた。それで、イエスの言行録を書き取らないといけないと考えたわけです。

古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『誰の味方でもありません』『絶対に挫折しない日本史』など。また、小説家としても活動しており、近著に『奈落』『アスク・ミー・ホワイ』など。

佐藤 聖書を最初につくったのは、2世紀のマルキオンという人物です。彼は、ユダヤ教つまり旧約聖書の神は怒ったり嫉妬したりする低次元の神だと考えて、「ルカによる福音書」と「パウロ書簡」の一部だけを合わせた聖書をつくったんです。でもマルキオンは当時のキリスト教の異端とされていたから、正統派は慌てていろんな文書をかき集めて、旧約聖書とパッケージで現在の元になる聖書を編纂したんです。
古市 マルキオンのつくった聖書はなかったことにした?
佐藤 異端ということで追放して、著作もすべて焚書にしました。ウィキペディアのマルキオンの項目を見ると、彼とヨハネを描いたイコンが載っています。ヨハネは後光が差しているのに、異端のマルキオンには差していない。顔も醜くつぶれている。それだけひどい扱いを受けたということです。
古市 イエスが実在したかどうかは、どういうふうに考えられているんですか。
佐藤 結論をいえば、アルベルト・シュヴァイツァーが決着をつけました。「イエスという男が1世紀にいたかは実証できない。不在も実証できない」と。ここから2つの流れが生まれて、一方には、実証できないならおそらく実在しないと考え、宗教批判を展開する人たちがいます。哲学者のフォイエルバッハやマルクスがこの流れに入ります。それに対して「ナザレ周辺にイエスをメシアとしてあがめる一群の人々がいた」ことまでは実証できることから、『新約聖書』の本来の性格は、歴史報告ではなく、宣教の内容にあるという流れがあります。近代神学はこちらの流れを受けて発展していったんです。

佐藤 優 さとうまさる 作家。1960年生まれ、東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。第68回菊池寛賞受賞。近著に『佐藤優の裏読み! 国際関係論』『「悪」の進化論 ダーウィニズムはいかに悪用されてきたか』『還暦からの人生戦略』など。

古市 キリスト教は愛の宗教であるはずなのに、キリスト教の旗のもとでさまざまな戦争が起きたのはどうしてですか。
佐藤 それは神学的に極めて自明で、人間に原罪があるからです。罪が形をとると悪になり、悪が人格化すると悪魔になります。『新約聖書』に入っている「ローマの信徒への手紙」の中で、パウロは「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と語っています。望んでいないことをやっているから、自分の意志ではない。あらゆる人間に原罪があって、どうあがいても悪いことをしちゃうんだとパウロは言っているわけです。原罪がある以上、地上の世界で悪いことがあったり、戦争があったりするのは当たり前の話なんですね。
古市 キリスト教は、人間にあまり期待しないんですか。
佐藤 まったく期待しません。だから、聖人もインチキに決まってます。柱の上にずっと座って誰も知らずに生活をしていましたということが、どうして伝わるのか。「そういう聖人は売れる」と考えてパブリシティをやったからですよね。

古市 キリスト教は悪に対する耐性があるのかもしれませんね。
佐藤 キリスト教自身が、悪いことをたくさんしてきたことはわかっていますからね。だから、神学を学んだことで信仰から離れていっちゃう人もいるんだけど、私は逆にそれで信仰が強くなりました。そんなもんだと思っていれば、それほど深い絶望もしないし、何かあったときには「これは試練だ。俺は絶対に選ばれているから、こけることはない」と開き直れます。実際、東京地検特捜部に捕まっても、社会的に復活できました。私の場合は旧共産圏のキリスト教が専攻だったから、キリスト教徒になっても何の得もしない人たちを研究していたし、社会主義時代のキリスト教徒たちとも交流がありました。たしかに何の得もないんだけど、本気で信じているとその人たちは強くて、ソ連を崩壊させるぐらいの力がありました。それだけ宗教の力はすごい強いと同時に、誤使用されたらとても怖い。だから、悪の正体を見据えることが重要なんです。

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