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古市憲寿×酒井隆史

古市憲寿×酒井隆史

古市憲寿×酒井隆史

名著とされているが、分厚くて手が出せなかった本、手を出してはみたけど停滞してしまった本。そんな“挫折”してしまった数々の名著を、社会学者の古市憲寿氏がホストとなり、信頼できる名著の第一人者を迎えて解説してもらうというこの連載。第32回は、デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』について、社会学者の酒井隆史さんにお聞きしました。

古市憲寿

構成/斎藤哲也

人間の可能性を

大きく拓いてくれる、

野心に満ちた本。

古市 酒井さんが訳された『万物の黎明』は、昨年発売されてたいへん話題になりましたね。一言で言うとどういう本なんでしょうか。
酒井 「人類史を根本からくつがえす」というサブタイトル通り、人類史を根本からくつがえして、われわれの人間像を刷新し、人間の可能性を大きく拓いてくれる、野心に満ちた本っていうことですかね。
 具体的には、人類はこれまで未熟な段階から段々成熟して発展してきた、という発想をくつがえそうとしています。たとえばこの本の特徴がよく現れているのは、農耕の起源に関する記述です。これまでの人類史だと、「農耕革命」という言い方に示されるように、農業の発明は、人類が文明の発達に向けて刻んだ大きな一歩だと語られてきました。農業によって富が蓄積され、それが国家や格差・階級を生み出していく。でもそれは人類史として見ると、英明と豊かさによって特徴づけられる人類の偉大なる文明を突き動かす画期的なモーターのような出来事だったんだと。
古市 そういう見方をくつがえしたと?
酒井 はい。農耕革命というと、一気に急激な転換が起こるようなイメージですけど、実際にそのプロセスを調べると、3000年以上の長い年月をかけて、さまざまな紆余曲折を経ながら進んできたんです。
 じゃあその長い期間にわたって、人類は農耕とどのようにつき合いをしてきたか。本書はそれを「プレイフル(遊戯)」と表現しているんですね。
古市 農業がプレイフル?
酒井 農耕というと、すごく真剣に取り組むイメージがありますよね。生活の大部分の時間を投入し、農耕を全ての生活基盤とする。でもこの本によると、その数千年の間には、農耕を知りながら、でも農耕に支配されず、むしろ農耕をあくまでなりわいの一部としてつき合っていくようなプレイフルな段階があったと言います。
古市 著者の2人は、プレイフルな農業の段階があったことを、どういうふうに論証しているんですか。
酒井 さまざまな遺跡の発掘やDNAの解析によって、当時の人々が一つのなりわいだけに特化したわけじゃなく、複数のなりわいを並行して営んでいたことがわかってきているんですね。だから人類の農耕との関わりは「シリアス」一辺倒ではなく、むしろその大部分が農業も複数のなりわいの一つとして適度に関わっていた。しかも、農業のやり方もいろいろ組み合わせています。つまり、人間が全生存を懸けて取り組むのではなく、いつでも撤回したり、やめたりできるような実験という意味を「プレイフル」という言葉に込めているんです。

最初から人類は

複数の選択肢を持ち、

複雑な社会構造を持っていた。

古市 農耕とも関連してくると思うんですけど、定住についてはこの本ではどのように説明されているんですか。
酒井 農耕が始まって定住が生まれたという説は長い間信じられてきましたが、それに反するエビデンスは多く現れています。狩猟採集社会が必ずしも定住と無縁であったわけではなく、定住と遊動の両方の形態をさまざまに組み合わせていたことがわかってきているんですね。
 つまり、ある意味で言えば「起源は存在しない」ということです。定住生活もあれば遊動生活もあり、それを組み合わせて人類は生きてきた。最初から人類は複数の選択肢を持ち、複雑な社会構造を持っていたということです。シンプルな起源や萌芽は存在せず、最初から複数の選択肢の中を横断しながら人類は生きてきたということですね。
古市 著者たちは国家についてはどう考えているんですか。
酒井 国家にも同じことが言えます。ヒエラルキー社会というものは、人類が選択することもあれば、それを解体することもあった。むしろ、自由に横断していたんです。これが起源といえば起源です。つまり、平等だった社会がヒエラルキー社会に転じるような決定的な契機は存在せず、人類は最初から平等関係とヒエラルキーとを組み合わせて横断してきた。これが彼らの主張であり、だから「国家の起源は存在しない」という言い方になっているわけです。
 だから彼らは、国家という概念は捨てて、複数の支配構造の組み合わせとして考えていこうと提案しています。

古市憲寿

本気で相対化しようとするなら

人類史のスケールで

考えるしかない。

酒井 古市さんはご存じだと思いますけど、社会科学において、国家は長らく躓きの石だったわけです。国家という概念は、あまりに包括的であるがゆえに事態を見えなくさせてしまう傾向を持つ。その理由の一つは、われわれの国家概念が近代国民国家をモデルとしている点にあります。この近代国民国家をモデルにして、過去や同時代的な多種多様な政体を扱おうとすると必ず無理がくる。ヨーロッパ中心主義に安住できた時代ならば、それで問題なかったかもしれませんが、それがもはや疑義にさらされ、さらに従来の近代国家システムも混乱している時代だと、国家という概念はますますなにかを発見させるよりは発見への桎梏として作用しているように見えます。
 彼らの新しい枠組みがこれからそのまま使われていくかどうかはわかりません。彼らもあくまで開かれた仮説として提示しています。いずれにしても、端緒としてはとても勇気ある第一歩じゃないでしょうか。この新しい視点によって、どれほど多くのことが明らかになるか、実験的に試してみる価値は十分にあるし、ワクワクする提案だと感じています。
古市 この本は現代の社会科学にどんなインパクトを与えそうですか。
酒井 これまでヨーロッパ中心主義をひっくり返すとか、国民国家を相対化するという議論は、死ぬほど出てきました。でもこの本を読んで、やっているように見えて全然相対化ができてなかったと思ったんですよね。本気で相対化しようと思ったら、やっぱり人類史のスケールで考えるしかないと僕も実感しました。

酒井隆史

この本は、

過小評価された

人類に捧げられている。

酒井 この本の画期的な点は、近代の啓蒙思想が抑圧的だったとか、全体主義の萌芽があったという形でヨーロッパ中心主義を批判するのではなく、啓蒙思想そのものがネイティブ・アメリカンの影響を強く受けていたと主張しているところにあります。
古市 アメリカ先住民がヨーロッパの啓蒙思想に影響を与えた?
酒井 そうなんです。ヨーロッパ思想の根幹にあるさまざまなアイデアは、アメリカ先住民との出会いと、彼らがヨーロッパ人を厳しく批判したことに由来すると。これは大変な発想の転換ですよね。
 たとえば自由に関する議論ですが、私たちが今感じている自由のイメージは、ヨーロッパの17世紀、18世紀の人たちが考えた自由と、当時のネイティブ・アメリカンが「あなた方には自由がない」とヨーロッパ人に言ったときに彼らがイメージした自由では、たぶんネイティブ・アメリカンの方に近いんですよね。僕らの自由のイメージって、どこまでも好きなように草原を駆け巡り、誰の命令であろうが嫌なときには従わなくてよい、金持ちだからといって威張られる必要がないという感じじゃないですか? こうした自由のイメージは啓蒙の発端期のヨーロッパにはほとんどありません。
 こうした議論を通じて、考古学と人類学のように、近代とかけ離れたフレームで物事を考えてきた学問が重要性を帯びていることの意味が、身に染みてわかってきました。
古市 最後に、この本は人類にどういうメッセージを示そうとしているんでしょうか。
酒井 この本は過小評価された人類に捧げられていると思うんです。神はもちろんのこと、偉人でもなんでもない、無数の「ふつうの」人々である人類です。知識人たちは、これまであの手この手でこのような人類の力を過小評価してきた。われわれ自身を小さい存在に仕上げ、それによって自らもその一員であるエリートの支配を正当化してきたのです。だけど、そうじゃないんだと。
 人類はどれだけのことを、どれだけ偉大に、どれだけ創造的になし得るのかということを、単に思想や理念としてではなく、裏づけを持って語ろうとしています。そうすることで、われわれは苦難に満ちたこれからの世界を生き延びることができるんだと励ましているような本だと思います。

古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『誰の味方でもありません』『絶対に挫折しない日本史』『楽観論』『10分で名著』『正義の味方が苦手です』『謎とき 世界の宗教・神話』など。また、小説家としても活動しており、著作に『奈落』『アスク・ミー・ホワイ』『ヒノマル』など。

酒井隆史 さかいたかし 社会学者、大阪公立大学教授。1965年生まれ、熊本県出身。専門は社会思想、都市史。著書に『通天閣 新・日本資本主義発達史』『暴力の哲学』『完全版 自由論 現在性の系譜学』『ブルシット・ジョブの謎』『賢人と奴隷とバカ』、訳書に『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』『国家をもたぬよう社会は努めてきた』『万物の黎明』など。

構成/斎藤哲也