撮影/伊東隆輔
構成/斎藤哲也
国家による制度設計が
必要だという視点を持っていた。
古市 アダム・スミスというと、経済学の基礎を最初につくった人というイメージがあります。その主著である『国富論』は、一言でいえばどんな本なんですか?
野原 私流の言い方になりますが「オープンな分散型システムによって経済は発展する」という見方を提唱した本だと思います。もう少し言葉を足すと、自由貿易のように人と人とのコミュニケーションをよりオープンにするほうが経済は発展する。そのためには、国家が上から政策を押し付けて産業を保護するのではなく、個々人の努力や創意工夫に任せたほうがいいのだ、と。
古市 いまの説明だと、国家や国王がいなくても経済が回ってしまいそうですけど、当時そういう考え方に反発はなかったんですか?
野原 そこが興味深いところです。アダム・スミスは、さまざまな捉え方があります。ありがちなのは市場原理主義の元祖だという見方です。いわゆる自由放任、「神の見えざる手」というものに代表される、伝統的なアダム・スミス像ですね。
しかし今日の研究者の多くは、スミスは国家の役割は否定していないと考えています。自由な経済活動を保証するためには、国家による制度設計が必要だという視点をスミスは持っていたということです。
『国富論』は日本人が勝手に略したタイトルで、現代を直訳すると『諸国民の富の本質と原因に関する探究』という長いタイトルなんですよ。諸国民はネーションズ(Nations)で、複数形になっている点が非常に重要です。当時スミスはイギリスに住んでいましたが、決して「ブリテンの富」ではないわけですよね。イギリスさえよくなればいいというのではなく、世界各国それぞれが豊かさを手にして、共存共栄できるような経済学ということを意味しているのだと思います。『国富論』だと「富国強兵」に近いニュアンスになってしまいますよね。でも、一国を増強するための処方箋を出している本じゃないんです。
古市 さきほど「神の見えざる手」という有名な言葉が出ましたけど、アダム・スミス自身はこの言葉をどういう意味合いで使っていたんですか?
野原 個人は自分の利益しか考えずに働いても、結果としてそれは、社会全体の豊かさになるというのが一般的な解釈です。じつは、アダム・スミス自体は「神の見えざる手」という言い方はしていなくて、見えざる手(Invisible Hand)、あるいは「ユピテルの見えざる手」という表現を使っているんです。ユピテルは、古代ローマの神のことで、「ゴッド」じゃないんですね。
学問が庶民に
焦点を当てた時代。
古市 アダム・スミスはなぜ、そういう独創的な発想ができたんでしょうかね。
野原 時代的な要因もあります。アダム・スミスが生まれ活躍した18世紀は、啓蒙の時代と呼ばれています。それまでの時代は、キリスト教道徳的にいって「お金儲けは悪いこと」でした。今日の研究では、中世でもお金儲けを肯定する議論があったことはわかっていますが、総じていえば、あまりいいイメージではなかったわけです。だけど、啓蒙の時代に入ると、人間の経済活動は悪いことではないと、多くの人が言い出した。アダム・スミスの議論も、そういう時代的な背景と密接に関わっています。
もうひとつ重要なのが、学問が庶民に焦点を当てたということです。それまでの政治学や歴史学は、主として政治家や思想家など偉い人にフォーカスするのが通常でしたが、啓蒙の時代になると、庶民の暮らしが焦点になっていくんです。それが、経済学が形成される大きなきっかけになりました。
古市 アダム・スミスには、もう一冊『道徳感情論』という有名な本がありますよね。こちらは、どういう本なんですか?
野原 一言でいうと、人間は利己心だけではなく、共感の心を持っているので、相互破壊的にならずにお互いに上手くコミュニケーションできるし、自発的に共存のルールは作ることができるという考え方を説明した本です。
古市 人々は市場に参加することによって共感を抱かざるを得ないのか、それとも、もともと共感する力を持っているのか、どんなイメージですか?
野原 市場に参加する人は、その前提としてお互いに共感する力を持ちながら、信頼関係を結んでいるという感じでしょうか。
社会のルールを守る
根底には他者への共感がある。
野原 信頼がないと怖くて、知らない人からモノを買えませんよね。毒を盛られているかもしれないと思ったら、買い物なんてできませんから、ある程度の信頼はないといけないわけです。
古市 たしかに、コンビニでおでんを買うだけでも、信頼がないとできませんよね。
野原 もちろん、状況によって必要な信頼の度合いというものはあります。スミスの場合、市場についてはそれほど信頼を重要視していません。だけど、社会という場面では、人間は相互に社会のルールを守っている。では、その社会のルールをなぜ守るかというと、重要なのは法律じゃない、とスミスは言うんですね。実際、私たちは細かい法律を知らなくても、おおむねルールを守っています。それは法律のもとにある「他人に危害を加えない」という発想を理解しているからですよね。そういったルール感覚の根本には、互いへの共感があるというのがスミスの考えです。
だから『道徳感情論』と『国富論』は、無関係じゃないんですね。やっぱり互いの共感や信頼があって、自発的な交換が成立する。そこから、市場のルールが形成されるということですから。
古市 市場がうまく回っていくために、信頼が必要なんですね。
野原 そうなんです。少し脱線しますが、各国別に他人をどれくらい信頼しているかということを調査した研究があるんですね。その調査によると、アメリカ人に比べて日本人は、実は見知らぬ他者への信頼は低いようです。
古市 日本人は内輪では仲良しだけど、知らない人への信頼度は低いということですね。
知恵の交換や
仕事の分担が重要。
古市 『国富論』や『道徳感情論』を読むにあたって、これおさえておいた方がいいという前提知識や時代背景ってありますか。
野原 そういうのがなくても割と読めますよ。 あった方がより理解が深まるでしょうけど。なかったとしても、ふつうに読めると思います。
古市 現代人がスミスを読む意味は、どの様なところがあると思いますか?
野原 スミスは、決して経済だけの話をした人ではないんですね。2冊の本を読むと、人間の本性のようなところから、人間同士の相互作用によって、人間関係や規則、市場がどうやってつくられていったのかを学ぶことができる。人間の営みを総合的に捉えるヒントをもらえるのが、スミスの魅力ではないでしょうか。
古市 最近は、「イノベーションを起こせ」と、よく言われるじゃないですか。スミスの学問には、そういったイノベーションに通じる発想ってあるんですか?
野原 技術革新をどう引き起こすかということにつながることは言っています。それは、「分業」なんですね。一人の人間が生活に必要なモノをイチから作るのではなく、それぞれ分担を決めて、ある特定の作業に集中する。そういう関係を強化していけば、生産性が上がるし、イノベーションも起きるだろうと。
古市 自分だけで完結するんじゃなくて、知恵を交換したり、仕事を分担するというのが重要なわけですね。たしかに、そういう発想は現代的ですね。
古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『平成くん、さようなら』『誰の味方でもありません』『百の夜は跳ねて』『奈落』など。
野原慎司 のはらしんじ 東京大学大学院経済学研究科准教授。1980年生まれ、大阪府出身。専攻は経済学、経済学史、社会思想史、経済・社会哲学。著書に『アダム・スミスの近代性の根源』(単著)、『経済学史』(共著)、『Commerce and Strangers in Adam Smith』(単著)など。
撮影/伊東隆輔
構成/斎藤哲也