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古市憲寿×東 浩紀

古市憲寿

古市憲寿

名著とされているが、分厚くて手が出せなかった本、手を出してはみたけど停滞してしまった本。そんな“挫折”してしまった数々の名著を、社会学者の古市憲寿氏がホストとなり、信頼できる名著の第一人者を迎えて解説してもらうというこの連載。第16回目はジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』について、批評家の東浩紀さんにお聞きしました。

古市憲寿

構成/斎藤哲也

近代民主主義について考える上では

絶対に避けて通れない本。

古市 ルソーの『社会契約論』は、ひと言で言うとどんな本ですか。
 近代民主主義の基礎となる本ですよね。フランス革命を作り上げた本とも言われていて、近代民主主義について考える上では絶対に避けて通れない本だと思います。
古市 全体主義の思想だと評されることもありますが、実際はどうなんでしょうか。
 それはルソーの「一般意志」という概念に関わる問題です。彼は、バラバラの個人一人ひとりが社会をつくるために全員と一斉に契約する、という変な言い方をしている。その契約によって一般意志というものが立ち上がり、人々はその一般意志を使って政治をする権利を王や政府に委託するんだと。こう言うとルソーは自由な個人を尊重しているように思えますが、他方で国家の一般意志が「死ね」と命じたら、市民は無条件に死ななければならないとまで断言してしまう。これは明らかな全体主義に見えるわけです。
 だからルソーは、近代的な自由主義や個人主義の起源としても読まれるし、全体主義の起源としても読まれる。いったいどっちなのか、というのはずっと議論され続けています。
古市 そもそもルソーの社会契約はどのように成立するんですか。
 そこがすごく謎めいてるんですよ。ルソーは、社会契約とは人民一人ひとりが「自分の持つすべての権利とともに自分を共同体全体に完全に譲渡すること」だと言っています。だけど各人はすべての人に自分を与えるから、結局は誰にも自分を与えないことになる。そして、自分が譲渡した権利と同じ権利が社会契約によって自分のところに戻ってくるし、自分が持っているものを保存する力を、契約前よりも多く手に入れるんだ、と。
 つまり、人々は全部を与える代わりに全部戻ってくるから、何も失わずに社会が成立するというロジックになっている。これ、変なロジックでしょう? 大事なのはこれを理解しようと思うことではなく、このすごく変なロジックが近代民主主義の基本にあるんだと理解することです。
古市 ルソーの理論は同時代には受け入れられたんですか。
 ルソーが生きている間は『社会契約論』はそんなに読まれなかったようです。『社会契約論』は1762年に出版されていますが、むしろその前年に出た『新エロイーズ』という恋愛小説が、18世紀フランス最大のベストセラーと言われるぐらい、爆発的に売れたんです。

自分たちが自分たちと契約するという自己矛盾を

肯定するために、一般意志をつくった。

古市 一般意志なんて本当にあるんですかね。
 だから不思議なんですよ。ルソーは、一般意志は存在すると言うわけです。一般意志をもとに政治をするんだから、政治が市民を抑圧しているように見えたとしても、本当は市民の一般意志に従っているのであって抑圧ではない、というロジックになる。ただ、古市さんが言うように、一般意志はモノとしては存在しないに決まっている。
古市 ルソーがSF的につくってしまったんですか。
 そう。ルソーは「自分たちで自分たちを統治する」という自己循環を肯定するため、一般意志という概念を作った。これは大事なことで、たとえば世論調査やビッグデータは一般意志と近いように見える。だけど、そもそも一般意志が人工的な概念であることを知っておかないと、概念に踊らされちゃうんですね。
古市 ルソーは、なぜそのフィクションを必要としたんですか。
 それはもっと深い話になります。ルソーは近代民主主義だけでなく、教育論やロマン主義文学など、近代を様々に体現している多面性を持った人です。その点からいうと、自分で自分を統治することは神なき時代を生きる近代人のミッションそのものなんですよ。
 神がいない、すなわち外からの倫理がない状態で、自然の欲求だけに従いながら、しかし道徳的に自分を高めていくにはどうしたらいいかという問いをずっとルソーは考えていた。ルソーはさまざまな著作で「自然に従え」と繰り返しています。

古市憲寿

近代に人間をどう位置づけるのかという問題が、

ルソーを通じて極端にあらわれている。

 これは自然礼賛のように聞こえるけれど、他方で自然に従っていると人間はダメになるとも言っているんです。だから、ルソーにとって自然とは何かというのも大きな謎なんですね。
 ルソーは合理性や文明がすばらしいとは考えていない。かといって、自然に従っていたら動物と同じになってしまう。じゃあどうするかという問いに対して、自分たちが自分たちと契約するというアクロバティックなロジックが出てくるんだけど、このロジックはそれだけだと成立しない。なんとかロジックを成立させるために、人工的な概念としてつくったのが一般意志なんです。
古市 それは時代的な要請なのか、それともルソーの人生経験が大きかったのか、どういうふうに考えたらいいですか。
 近代の極端を体現するルソーが極端な形で出したという意味では、時代の要請だと思います。神はもういない。私たちも動物の一種にすぎない。つまり、人間が動物よりも上位にあり、合理性が自然よりもすぐれていることが信じられなくなった世界に、人間をどう位置づけるのかという問題が、ルソーという個人を通じて極端にあらわれているわけです。
 ただ、もう少し違う次元でも、ルソーは近代的な人間なんですよ。彼は大学人ではないし、パリにも馴染めなかった。ルソーの同世代には、ディドロやダランベール、ヒューム、ちょっと下にはアダム・スミスやカントがいて、綺羅星のごとく哲学者がいる。でもルソーは、そういう哲学者のコミュニティに全然入れなかった人なんですよね。

東 浩紀

ルソーはネットを

好きになりそうな気がします。

古市 ルソーが現代社会を見たら、自分が構想したような国家なり社会が実現されていると思うんですかね。
 たぶん、全然違うと思うでしょうね。ルソーはとても夢想的な人です。ルソーが考えていた理想的な国家は、市民3万人ぐらいの直接民主制で政策が決まるような国家です。だから、ルソーは代議制を認めていないし、政党制も認めていない。僕たちがいま当たり前だと思っている議会制民主主義は、ルソーからすると大変堕落したものに見えるでしょうね。ただ僕の直感では、ルソーはネットを好きになりそうな気がします。みんなが上下関係なくワーッと集まって、集まったところから何かが立ち上がってくる。そういうのがルソーは好きなんですよ。『ダランベールへの手紙』という有名な本のなかで、ルソーは演劇を批判しています。なぜ演劇がダメかというと、見る側と見られる側を分割するからです。じゃあ、ルソーが考える理想の演劇はというと、大きな広場に木を1本立て、その周りをみんながグルグル回るんだと(笑)。馬鹿げているけど、ネットのコミュニケーションはこれに近いものがありますよね。
古市 ルソーから離れますが、現在のような民主主義は、21世紀中ぐらいは残ると思いますか。
 民主主義をどう理解するかの問題です。政治思想は19世紀からずっと代議制民主主義が大事だとばかり言い続けてきました。つまり選挙の話です。でも、いま政治や社会について考えるなら、むしろ統治や行政の部分が大切で、代議士をどう選ぶかという話ばかり続けてもしかたないかもしれない。
古市 そういう時代には、ルソーは読まれなくなっていくと思いますか?
 そんなこともないですよ。「自分たちで自分を統治するとは何か」という問題がルソーの中心だから、議会制民主主義よりもっと基礎にある話をしているわけです。そういう発想を世界で最初にわかりやすい形で示した『社会契約論』の重要性は、これからも失われることはないと思います。

古市憲寿 ふるいちのりとし 社会学者。1985年生まれ、東京都出身。若い世代を代表する論客として多くのメディアで活躍。情報番組のコメンテーターも務める。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『誰の味方でもありません』『絶対に挫折しない日本史』『楽観論』など。また、小説家としても活動しており、近著に『奈落』『アスク・ミー・ホワイ』など。

東 浩紀 あずまひろき 批評家、作家。1971年生まれ、東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン取締役。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』『クォンタム・ファミリーズ』『一般意志2.0』『ゲンロン0 観光客の哲学』『ゆるく考える』『ゲンロン戦記』など。

構成/斎藤哲也