キャスティングディレクター・杉野剛が映画監督を深堀り。
第23回目は、『愚行録』の石川慶監督です。
撮影/野呂美帆
キャスティングディレクター・杉野剛が映画監督を深堀り。
第23回目は、『愚行録』の石川慶監督です。
杉野 石川監督は愛知県豊橋市のご出身なんですね。
石川 はい。高校までは地元の学校で、ラグビー部でした。実は『愚行録』にも出ていただいた平田満さんが初代キャプテンなんです。出演を依頼するときも「後輩です」って(笑)。
杉野 そうなんですね(笑)。映画はよく観ていたんですか?
石川 観ていました。父親の影響で小学生の頃から数は観ていたと思います。ただ、映画で食べていこうとは全然思っていなくて、選択肢にもありませんでした。東京だったら、もっと映画の道に進むことを具体的に考えていたかもしれません。
杉野 大学も東北大学ですよね。映画サークルには?
石川 ずっと幽霊部員だったんですが、卒業間近に自主映画を一本だけ作りました。友達にビデオカメラを借りて、脚本も書いて。それが大きな転換点でしたね。もう沼のようにズルズルとハマってしまい、それ以外は考えられなくなってしまって。
杉野 映画作りの楽しさを知ってしまったと。卒業間近ということは、就職活動はどうされたんですか?
外に出るという
選択肢もあるんだと
気づかされた。
石川 僕らの時代は超就職氷河期で、映画の制作会社も狭き門だったんです。なんとか映画につながる道筋がないものかと探していたときに、大学の先輩がニューヨーク大学の短期留学から戻ってきたのを見て、外に出るという選択肢もあるんだと気づかされました。
杉野 監督はポーランドの国立大学で映画を学ばれていますよね。
石川 いろいろ調べはじめたら旧共産圏が面白いというのを発見しまして。過去に映画を使ってプロパガンダをやってきた歴史があるので、どの国にも国立の映画学校があるんです。何よりもアメリカなどの大学に比べると学費が安かった。言葉の問題はありますけど、英語だって別にしゃべれるわけではないので(笑)。そこからは、地平が一気に開けました。旧共産圏の中でもポーランドを選んだのは、アンジェイ・ワイダ監督の影響もあったと思います。
杉野 ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』も子供の頃に観ていたそうですね。
石川 当時はよくわかっていませんでしたけど、面白かったという記憶があります。
杉野 そこから留学に向けて動いていったんですね。
石川 はい。試験がありまして、かなり難しかったんです。期間が1週間くらいあり、24枚撮りの白黒フィルムを渡されて、街に出て1本のストーリーになるように撮ってくるとか、クジで引いたお題をもとに30分くらいで脚本を書いて、役者を選んで教授たちの見ている前でリハをして舞台の本番をするとか。絵を描く試験もありましたし、もちろん面接も。受からないだろうと思っていたんですけど、なぜか合格しました。
杉野 周りが就職を決めている中でポーランドへ行くのは不安じゃなかったですか?
石川 そうですね。場合によっては何も芽が出ずに終わってしまうかもしれないと思いながらも、ひとまず夢中になれる何かがあるならと思って留学を決めました。ただ、行ってみたらとても楽しくて、完全に日本とは別世界でした。授業も日常の生活も全部ポーランド語なので、そこは大変でしたけど。資金面でも最後の年に滞在費が尽きてしまって、文化庁の海外研修制度を利用したんです。そのときに運良くワイダ監督に推薦状を書いてもらえて。
杉野 ワイダ監督の推薦状を持っている人は落とせないですね(笑)。卒業後は帰国されなかったんですか?
石川 友達のプロデューサーとポーランドで小さな制作会社を立ち上げたんです。昔の映画を紹介するビデオを制作したり、短編のドキュメンタリーを撮ったりしていました。
日本映画というカテゴリーが
あまり意味をなさなく
なってきている。
杉野 卒業後もポーランドで活動されて、そこから日本に帰ってこようと思ったきっかけはなんだったんですか?
石川 長編企画がなかなか動かなかったことが理由の一つですね。すでに目処はついていたので、資金を調達するために戻ってきたというのはあります。あとはポーランドに地盤ができていたので、一旦帰国して日本の地盤を固めようとも思っていました。
杉野 なるほど。帰国してから『愚行録』を撮るまでにはどのくらいのスパンがあったんですか?
石川 8年くらいです。
杉野 8年!それは長いですね。
石川 そうですね。仕事もなくて、ひとまず上京するんですけど、家が借りられないので、改装したカラオケボックスに住んでいました。夜逃げ物件が売りに出ていて、オランダやフィンランドでデザインを学んでいた友達や、バンドマンのベーシストらと借りて、みんなでリフォームして暮らしていたんです。
杉野 トキワ荘みたいですね(笑)。お仕事もされながら?
石川 当時は編集やスクリプターをやったり、教育コンテンツを手掛けたり、映画からは遠ざかっていました。途中、もう自分は映画を撮れないのかなと思うぐらい長かったです。ただ、企画は進めていて、そのときオフィス北野のプロデューサーと偶然知り合い、原作付きの別企画をやることになるんです。
杉野 それが『愚行録』ですか。
石川 はい。原作小説は証言集のような構成なんです。要は短編の組み合わせなので、これは自分の知っている手法で作れるんじゃないかと。それに妻夫木聡さんが企画書の段階で出演を決めてくれたのも大きかったですね。僕の短編を観てくれて、なんの確約もできないプロジェクトに乗ってくれたんです。相手の肩書などは一切関係なく、人と内容を見て話をしてくれる方で、そこから一気に動き出しました。
杉野 妻夫木さんは監督の最新作『ある男』にも出演されますよね。僕はその次の作品で監督とご一緒させてもらいましたが、今後の展望などはありますか?
石川 企画も進めているんですが、やはりポーランドで撮ってみたいですね。最近は海外チームとの仕事も増えてきていますし、日本映画というカテゴリー自体があまり意味をなさなくなってきているというのは実感しています。面白い映画はどこで撮っても面白いですから。
石川 慶 いしかわけい 映画監督。1977年生まれ、愛知県出身。東北大学物理学科を卒業後、ポーランドの国立映画大学に留学。帰国後、2017年には映画『愚行録』で長編映画デビューを果たす。その後、『蜜蜂と遠雷』や『Arc アーク』を監督。2022年には最新作の『ある男』が公開予定。
杉野 剛 すぎのつよし キャスティングディレクター。黒澤明監督に師事し、『乱』『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』で助監督を務める。その後、キャスティングに転向。近年では『異動辞令は音楽隊!』『決戦は日曜日』に参加。
撮影/野呂美帆