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杉野剛

杉野剛

杉野剛

撮影/野呂美帆

キャスティングディレクター・杉野剛が映画監督を深堀り。

第30回目は、『佐々木、イン、マイマイン』の内山拓也監督です。

杉野 内山監督とは次の作品でご一緒させていただいていますが、そもそも子どもの頃から映画に触れていたんですか?
内山 小中高までは運動をバリバリやっているようなタイプで、今の僕を見た同級生は映画監督になっていることに驚くと思います。芸術分野にそこまで長けているわけではなかったですし、高校生のときも映画館には1年に1本観に行くくらいで。
杉野 スポーツ少年だったんですね。
内山 サッカーと野球と水泳をやっていて観戦するのも好きでした。今でも生活の比重は映画よりスポーツかもしれません。
杉野 本当ですか。高校卒業後はどうされたんですか?
内山 ありきたりですが東京への憧れみたいなものがあって。
杉野 出身はどちらでしたっけ?
内山 新潟県の亀田町っていう亀田製菓のある町です。漠然とここにはいられない、違うところに行きたいと思っていて。服がずっと好きだったので、何かするとしたら服に関係することかなと。当時、新潟市の古町にある古着屋さんに通っていたんです。
杉野 おしゃれな高校生だったんですね。

内山拓也

どうしようもなく

映画監督になりたかったんだと、

初めて気がついた。

内山 その店に進路や夢を相談できる兄貴みたいな店長がいて、その人に勧められて庵野秀明さんの『式日』という映画を観たんです。内容はすごくショッキングでしたけど、衣装の赤い服が特徴的で。好きな服でこういう表現の仕事もできるのかと思い、パソコンで「服 東京 学校」と検索したら、一番上に文化服装学院が出てきたんです。調べたら有名な方も卒業されているし、「ここなんだな」と。行くからには絶対大成してやろうという思いでスタイリスト科に入学して、勉強しながらスタイリストのアシスタントをしていました。
杉野 アシスタントの仕事は学校が斡旋してくれたりするんですか?
内山 そういうのはなかったです。僕は何のツテも知識もなかったので、スタイリストの事務所に電話をしたり、オフィスに行って直談判したりしていました。「使ってくれないと今日は帰りません」みたいな(笑)。18~20歳ぐらいまではそうやって仕事を探して、何百という現場を経験しました。
杉野 そこからどうやって映画の道に進んでいったんですか?
内山 スタイリストの世界は「寝れない食えないお金がない」を解決した人のみが成功すると言われて、その根性論がすごく嫌だったので、自分は当たり前に全部こなせる人間になろうと思って。学校に通ってアルバイトをする日があったりアシスタントをして課題もやると、毎日深夜3時くらいになるんですけど、寝ないことに慣れるために、そこから1日1本映画を観ると決めたんです。その頃、『時計じかけのオレンジ』や『SOMEWHERE』などの人生を変える作品とも出会いました。アシスタントで初めて映画の現場も経験して、自分がやりたいのはファッションを介して作品に携わるのではなく、映画の世界そのものなんだなと思い、ファッションの世界を辞めようと決めたんです。
杉野 決めた後はどうしたんですか?
内山 卒業前にインターンのような形で、新宿武蔵野館でアルバイトをして、卒業後もそのままフリーターとして働き続けました。そのときに『チチを撮りに』という映画に出会い、監督の中野量太さんと知り合う機会があって、親しくさせてもらいました。その後は制作部や演出部としてオファーをいただいたり、中野さんの現場にも一度だけ演出部で参加したりもするんですけど、その過程で自分の表現がしたいという思いが募っていって。自分がそもそも映画の世界に飛び込んだのは、映画を通して表現することや現代社会に接続したりすることに魅了されていたからで、どうしようもなく映画監督になりたかったんだとそこで初めて気がついたんです。

杉野 剛

少しは人生が

好転するかと思った。

でも、そんなに甘くはなかった。

杉野 映画を撮りたいんだと。
内山 はい。ファッションでも何かを表現したいという思いがあって、映画も同じなんだと。そこからアルバイトでお金を貯めて、自主映画の『ヴァニタス』を撮りました。それが自分にとって初めての映像作品でした。でも、尺が104分あったから出せる映画祭が少なくて。長編じゃないと意味がないと思っていたのになかなかエントリーもできず、かなり落ち込みました。そんなときにPFFアワードに入選して、24歳になる頃でしたけど、ちょっと人生が好転するかと思ったんです。でも、そんなに甘くはなかったですね。
杉野 ひょっとしたらと思ったけど、そうでもなかった?
内山 海外の映画祭にも行かせてもらったりしたんですけど、意外と何も変わらなかったです。ずっともやもやしながらまた新宿武蔵野館でアルバイトしていた頃に、今King Gnuとして活躍している常田大希と出会って、MVを撮ることになって。同時期に、自主映画に出てくれた俳優の細川岳と「このままじゃ俺たちダメだ」って愚痴を言い合ったりして、『佐々木、イン、マイマイン』のもとになるような話をずっと練っていました。
杉野 MVの仕事をしながら。
内山 そうですね。MVを撮りつつも、やっぱり映画を作らないといけないと思い、『佐々木、イン、マイマイン』の脚本を約3年かけて完成させました。2019年に撮影して、コロナ禍でしたけど延期することなく予定通り2020年に公開することに決めて、11月になんとか公開できました。
杉野 高い評価を受けましたよね。
内山 たくさんの方に評価していただきました。今後も、自分なりの映画を作っていきたいですし、映画業界の未来もみなさんと考えていきたいです。

内山拓也 うちやまたくや 映画監督。1992年生まれ、新潟県出身。初監督作となる長編映画『ヴァニタス』でPFFアワード2016の観客賞を受賞。2020年の『佐々木、イン、マイマイン』は新藤兼人賞の銀賞や、ヨコハマ映画祭の各賞を受賞。「日本版CNC設立を求める会」のメンバー。

杉野 剛 すぎのつよし キャスティングディレクター。黒澤明監督に師事し、『乱』『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』で助監督を務める。その後、キャスティングに転向。近年では『シン・仮面ライダー』『最後まで行く』に参加。

撮影/野呂美帆