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杉野剛

杉野剛

杉野剛

撮影/野呂美帆 取材・文/門間雄介

キャスティングディレクター・杉野剛が映画監督を深堀り。

第33回目は、『の・ようなもの のようなもの』や

『星屑の町』などの杉山泰一監督です。

杉野 僕らが出会ったのは森田芳光監督の『失楽園』の時ですよね。杉山監督は森田監督のチーフ助監督を長く務めていて、森田さんから全面的に信頼されていました。僕のイメージからすると、「小さい頃から映画が好きだった」というタイプではない気がするんですが。
杉山 初めは“撮り鉄”だったんですよ。小学生の頃、家の近くをまだSLが走っていて、写真を撮ってたんです。そうしたら、親がたまたま8ミリのカメラを買ってきて、それじゃあついでにSLも撮ろうと。中1の時にはSLを追いかけて、ひとりで九州を旅しました。そうして撮影したものを、好きな音楽を流しながら映写するのが好きだったんです。
 大きかったのは、通っていた武蔵工大付属中学・高校(現・東京都市大学付属中学・高校)が東宝撮影所のそばで、同級生の知り合いにキャメラマンの方がいたことですね。同級生を通じて、特撮の本番が何時頃にあるという情報を聞くと、放課後に制服のまま撮影所へ入っていきました。『東京湾炎上』のタンカー爆破シーンを見たのをよく覚えてます。大人たちが真剣に遊んでいるみたいで、すごく楽しそうでしたよね。

杉山泰一

森田芳光監督とは、

デビュー作から遺作まで

ご一緒することになった。

杉山 そのキャメラマンの方が撮影しているというので、『傷だらけの天使』の現場を見ることができたのも大きなきっかけでした。そろそろ高校卒業後の進路を考えるかという時に、今村昌平監督が横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)を開校したことを知って、たぶんそこが映画やテレビの現場に入る一番の近道なんだろうなと。僕は3期生として入りました。
杉野 そこでの2年を終えたあとは、すぐに現場に出たわけですよね。
杉山 テレビの『雲霧仁左衛門』に制作進行でついたのが最初の現場です。でも演出部でなにかできないかなと思っていたので、その時の演出部に「仕事があったらお願いします」と話していたんですよ。そうしたら国際放映で昼の帯ドラマをやるから、よかったら来るかと誘われて、それが最初の演出部。そこで3年くらい助監督をやっていたところに、僕の上についていた助監督から「映画の話が来たけどやる?」と言われて、サード助監督で入ったのが森田監督の劇場映画デビュー作『の・ようなもの』でした。ほとんどのスタッフが現場未経験の中、演出部に僕ら経験者が呼ばれたのは、そこにプロを配置しておけばなんとかなると思ったからみたいですね。
杉野 杉山監督は当然、次の森田監督の映画にも呼ばれたんですよね?
杉山 いや、森田監督はまだスタッフを指名できる立場じゃなかったんだと思います。だから『家族ゲーム』も『メイン・テーマ』も、それぞれの制作会社の演出部がついてましたね。ところが『それから』のプロデューサーがセントラル・アーツの黒澤満さんで、たまたまセントラル系のつながりがあったので、僕はそっち方面から呼ばれた。『キッチン』以降は、入れなかったものもありますけど、『僕達急行 A列車で行こう』までほとんどの作品をやりました。まさかあれが遺作になるとは思いませんでしたけどね。結局、デビュー作から遺作までご一緒するという流れになったんです。
杉野 監督をやりはじめたのは、どこかの制作会社から声がかかったんですか?
杉山 FILMからですね。君塚良一さんの監督・脚本作『誰も守ってくれない』のチーフ助監督をやっていた時、そのエピソード0的な話をテレビでやることになり、『誰も守れない』という2時間ドラマを監督したのが最初です。森田監督は『バカヤロー!』シリーズに製作総指揮として関わって、自分の助監督を監督に起用していたじゃないですか。だから僕にも声がかかるかと思ってたけど、そこからは漏れてしまった。なぜかというと、みんな監督にしたら自分の助監督がいなくなっちゃうから(笑)。駒を取っとかないといけない。

杉野 剛

多くの人との出会いが

あったからこそ、

監督をやれている。

杉野 それ以降はテレビの監督をいくつかやられて、『相棒』でも監督をされてますよね。
杉山 水谷豊さんとの出会いが大きかったと思います。水谷さんが主演した降旗康男監督の『少年H』に助監督でついて、その流れで水谷さんが初めて監督した『TAP THE LAST SHOW』の時、「助監督をやってくれないか」と。その後、『相棒』の話をいただいて、年に2本ぐらい監督を任されるようになったんです。考えてみれば君塚さんとの出会いも大きかったし、そういった人たちとの出会いがあったからこそ、監督をやってるようなところがありますよね。
杉野 森田監督が亡くなったあと、『の・ようなもの』の35年後を描く『の・ようなもの のようなもの』を監督されました。
杉山 初めは奥様の三沢和子さんを励ますために、森田監督の月命日にみんなで集まって飲み会をしていたんです。ところがひょんなことから、僕の下の助監督だった堀口正樹くんが『の・ようなもの のようなもの』という題名を口走った。そこからですよね。紆余曲折ありながら、松山ケンイチくんや35年前のキャストのみなさんに出ていただいて、オリジナルのストーリーを作りました。それが最初に監督した映画で、その後は小説を映画化した『トモシビ 銚子電鉄6.4kmの軌跡』、髙橋正弥くんがプロデュースした『星屑の町』を監督しています。
杉野 それにしても森田監督の訃報は突然のことでした。僕はテレビのニュース速報で知ったんです。思わず目が点になって。
杉山 実は『僕達急行』の現場が終わる頃には、だいぶ悪かったんですよね。鼻から酸素を入れながら、撮影をしていたくらいなので。そのあと入院して、僕は毎日のように病院に顔を出してたんですけど、『少年H』のロケハンで韓国へ向かった日に亡くなりました。生きていらっしゃったら今年で73歳。本当にもったいなかった。
杉野 まだまだこれからという時でしたよね。亡くなられたのは61歳の時ですか。
杉山 そうですね。僕は今年で64歳だから追い越しちゃいました。

杉山泰一 すぎやまたいいち 映画監督。1959年生まれ、神奈川県出身。森田芳光監督作品などで助監督を務め、2016年に『の・ようなもの のようなもの』で映画初監督。その他の作品に『トモシビ 銚子電鉄6.4kmの軌跡』『星屑の町』などがある。

杉野 剛 すぎのつよし キャスティングディレクター。黒澤明監督に師事し、『乱』『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』で助監督を務める。その後、キャスティングに転向。近年では『花腐し』『52ヘルツのクジラたち』に参加。

撮影/野呂美帆 取材・文/門間雄介