取材・文/門間雄介
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ミュージシャン仲間のこと。
ふたりで作った思い出の曲。
この間、高橋幸宏の音楽活動50周年記念ライブがあってね。僕は小山田圭吾くんと、YMOのときに幸宏とふたりで作った「CUE」を演奏したんだ。でもそれをアンコールで披露するとは知らなくて、長い時間ずっと待っていたから、あんまり声が出なくてね。それで自分の声が出ない分、小山田くんに「ちゃんと歌ってね」ってお願いして。もしかしてプレッシャーをかけちゃったかな?
そのときにも話したけど、「CUE」は完成したときに「これだ!」という手応えがあった曲でね。だから幸宏と一緒にスタジオで記念写真を撮った、そういう思い出の曲なんだ。そのときのポラロイド写真は、たぶん幸宏が持ってるんじゃないかな。
残念ながら体調の問題で、幸宏本人はその日のライブに出演できなかったから、正直なところすごく複雑な気持ちだった。どこに気持ちを収めればいいか、わからなかったっていうか。次の機会には幸宏をまじえて、みんなで演奏できることを期待してるけどね。
出演者が多かったので、楽屋ではわりとひとりでひっそりしてたけど、元ジャパンのスティーヴ・ジャンセンが来てたりして、久しぶりに話ができて嬉しかった。ジャンセンはエリザベス女王の国葬のときに英国から日本に来たわけだが、そのことは聞きそびれた。
そんなわけでしばらく会ってないミュージシャン仲間とはあんまり話さなかったけど、ちょっと顔を出したら、誰かから「雨だから来ないと思ってた」と言われた。そう思われるのも仕方ない。なぜなら当日のリハーサルをサボったので。わがままな最高齢ミュージシャンに違いない。
結局、自分の年齢を考えたとき、70歳を超えると開きが出てくるんだよね。みんなとズレが出てくるっていうか。ちょっと隠居モードに入るので、もちろん仕事はしてるけど、ミュージシャンっていう気持ちも現役感も薄い。この間、チャールズさんが国王になったでしょう。テレビを見てたら、すごく年に見えたんだけど、僕よりひとつ年下だっていうからびっくりしてね。そういうことで、自分の年齢を感じる日々が最近続いてた気がする。
初めて会った日。
そんななか幸宏は貴重な同世代の仲間だから、そういう人が弱っちゃうと困るんだ。孤独を感じるっていうかね。これからできることもいっぱいあるし。
幸宏と初めて会った日のことはよく覚えてるよ。大学2年生だったころ、軽井沢の三笠ホテルで行われたダンス・パーティーに参加したとき、僕らの対バンが幸宏たちのバンドでね。そうしたら、僕らのバンドが駄目に思えるくらい、彼らがすばらしかった。そこでドラムを叩いていた幸宏に声をかけたんだ。
幸宏はまだ16歳。その年齢でスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」を演奏してたんだから、生意気だよね。でも当時は、僕も幸宏と同年代の鈴木茂や林立夫と音楽をやっていたし、年の差はあったけど、意識せずに付き合っていた。音楽は年齢の差を感じさせないんだ。映画の話をすると、途端に年の差を感じるんだけど、音楽は不思議だよね。まあそう考えると、長い付き合いだな。
それからまた時間が経って、彼はサディスティック・ミカ・バンドに参加した。そのころ加藤和彦くんからミカ・バンドに入ってくれと言われて、日比谷野音のライブに加わったことがある。いやいや、僕にはやることがあるからって、お断りしたんだけど。
そうこうして、幸宏はミカ・バンドのあとサディスティックスに在籍していたけど、バンドの分解間際に声をかけたら喜んでYMOに入ってくれた。YMOは最初、林立夫と女性シンガーのマナというメンバーを考えてたんだ。でも林くんから、自分にはやりたいことがあると。まあ、ミカ・バンドのときの僕みたいなもんだよね。それで一回白紙に戻して、声をかけたら飛んできてくれたのが、まず幸宏だった。
そのときの幸宏の目が輝いていたのを忘れられないな。この人やる気だなって。幸宏との仕事はそれからだから、実質的にはYMO以降の付き合いになるかな。
幸宏は3年前にアメリカでソロ公演をしたとき、ロサンゼルスまで見に来てくれたんだ。そうしたらその日がちょうど幸宏の誕生日で、どこかのクラブでDJイベントがあったから、みんなでくり出してね。幸宏の誕生会みたいになっちゃったことがある。その前の年はロンドンのソロ公演にも来てくれて、たまたまロンドンにいた教授も来てくれたので、アンコールのときに「ABSOLUTE EGO DANCE」を3人で演奏した。
ついこの間だよね、そういうことをやってたのは。それがウイルス蔓延のせいで会う機会がなくなっちゃって、いますごく残念なんだ。
会う機会が少ないといえば、最近だとティン・パン・アレーの仲間かな。ある日、テレビを観てたらSKYEが出てきて、そこにユーミンが参加していた。雨が降っていたので、ぼくは行かなかったけどね(笑)。
届いたデモテープ。
ユーミンもデビュー50周年だってね。ユーミンはエイプリル・フールのライブを観にきてくれてたけど、そのころ彼女も15、16歳だったんじゃないかな。でも当時のことはあまり覚えてない。彼女の一枚目のアルバム『ひこうき雲』をキャラメル・ママ時代にセッションで作ったのが、気持ち的には初対面だね。
当時、僕と林立夫がいっぱい聴いて、習得しようとしていたのが「スカ」だったんだ。本場ジャマイカのスカというより、もう少し洗練されたメンフィス系のスカだね。特にステイプル・シンガーズの「I’ll Take You There」には本当にショックを受けて、そのベースやドラミングに深く影響されていた。その最中にユーミンのデモテープが届いて、アルファの村井邦彦さんからプロデュースしてくれと頼まれたんだ。
届いた曲は「返事はいらない」。もとのデモはかまやつひろしさんがプロデュースして、幸宏がドラムを叩いていた。バラードっぽい曲だったけど、僕の頭はスカでいっぱいだったから、これはスカになるなと。それで特に相談もせず、そういうアレンジをしたんだ。
自分では気に入ってることも、あまり受けないということはよくある。「返事はいらない」もたぶんそうだったかもしれないな。職人の作った家が居心地が悪い、ということもある。ユーミンがどんな家に住みたいのかあまり考えなかったことは反省だ。でもスタジオでプレイバックを聴きながら、こういうのが売れたらいいよねって、みんなで話したのを覚えてるよ。出来に関しては、誰も不満を言うわけじゃなかったし、思ってもみないサウンドになったことは確かだ。
なによりユーミンの曲がいいんでね。それがあってこそ、演奏が生きるわけでしょう。彼女の曲のよさは、フックがすばらしくうまく作られてるところ。それが単純だろうと複雑だろうと関係なく、聴いていて引っかかるパートがあるんだ。ユーミンはそういうところがちゃんとできてる曲が多いよね。だからみんな口ずさみたくなるし、あれだけ人気が出たんだと思う。ユーモアのセンスもあって、言葉の感覚が独特だったから、そういうところにも才能が現れてたんだろうね。
若い音楽家たちに対して、思うこと。
僕はいま新しい音楽を作っていくことにずっと考えが集中してる。次のアルバムに向けて、まったく新しい形態を考えていて、ミレニアム世代の人たちとなにかできるんじゃないかと思ってるんだ。彼ら若い音楽家たちが、いままでにない音楽的ビジョンを持っていて、それが僕とかなり合うような気がしていてね。
だから内面ではモチベーションが高まりつつあるけど、なかなか表には出てこないという、まだ輪郭がはっきりしない時期。自分にとってはすごく大事な時期だね。いちばん強く感じるのは、今回はいままでと違って、音楽のことだけじゃないんだ。前はなにしろ音楽が好きだから、それを音楽のかたちで出してたんだけど、今回はもっと大事なことがあるだろうと。それがまだわからない。言葉にできないんだね。音楽ならすぐ作れるけど、作らずに我慢してる。さぼってるように見えるかもしれないけど(笑)、決してそうじゃないんだ。少しずつビジョンが見えてきたところだよ。
細野晴臣 ほそのはるおみ 音楽家。1947年生まれ、東京都出身。’69年にエイプリル・フールでデビュー。’70年にはっぴいえんどを結成。’73年からソロ活動を開始、同時にティン・パン・アレーとしても活動。’78年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント・ミュージックを探求、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。
取材・文/門間雄介
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