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細野晴臣

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失われかけているものの中にこそ、かけがえのないものがある。ミュージシャン・細野晴臣が、今後も「遺したいもの」や、関心を持っている「伝えたいこと」を語る新連載。一つ一つの言葉から、その価値観や生き方が見えてくる。

細野晴臣

取材・文/門間雄介
(C)2019「NO SMOKING」FILM PARTNERS

受け継がれる芸。

細野晴臣

希少な芸能を大切にしたい。

 最近、古いミュージカル映画をたくさん観ていてね。観逃していたものを観たり、昔観ていたものをもう一度観直したりしてるんです、1950年代のフレッド・アステアとか。去年、フレッド・アステア特集をどこかの映画館でやってたけど、同時期に同じような作品を自分なりに特集してましたから、家で(笑)。

 すると、当時観ていた時とは違う感覚が出てきたんです。こういった芸は、今はもうこの世にないものなんだと。アステアみたいな人が映画に出て、残してくれたから今でも観られるわけでね。これは大事な映像だと。日本にもかつてはあったんです。歌もあれば踊りもある、ボードビルと言われるショーが浅草を中心に行われていた。この間、関根勤さんが週刊誌でキャリアを振り返っていて、素人同然で芸能界に入ったから、芸を身につけるために小堺一機さんと一緒にタップ・ダンスを習ったと言うんです。たぶん関根さんや小堺さん辺りがボードビルを受け継いだ最後の世代なのかな。

 そういった希少な芸能を大切にしたいという気持ちが今はとても強いですね。どうやったらボードビルを残せるのか、自分に何ができるのか、そういったことを考えてる最中です。

 それで、実はタップダンスを習いにいこうと思ってるんですよ。今初めて言うけど(笑)。言うとやらなきゃいけなくなるのでね。まあ、先生が見つかったんだけど、そこに至るまでがけっこう大変だった。今はダンスというとだいたいヒップホップ系で、音楽的にはアステアの時代とだいぶ違うモードでやってるんです。だから、アステア好きの先生なんて絶対にいないだろうと。そう思っていたら、ようやくひとり見つけることができたんですよ。

 でも習うとなると厳しいからね、先生は。基礎練習は地味なことを延々繰り返していくみたいだし。そういうのが嫌で嫌で、全部すっとばしてやりたいんです、せっかちなんで。ちょっとかじって、ライブの時に3秒くらいやれればいい。もう年だから。

今年のテーマは、タップ・ダンスとハット・トリック。

 タップ・ダンスは浅草の芸人さんならみんなやっていたものなんです。昔、浪曲から漫才に行った玉川良一という芸人がいて、その人が突然タップを踊り出して驚いたことがありました。こんな人でも(失礼!)タップを踊れるんだって。ビートたけしさんも踊れるしね。お正月にテレビを観ていたら、おぼん・こぼんもタップを踊ってた。

 芸人は誰でも歌って踊れなきゃいけないというルールが以前はあったと思うんです。そうやって芸を引き継いでいった。アメリカで言えば、ニューヨーク辺りの芸人っていうのは映画スターの出どころですよね。みんな芸を受け継いでるから、映画俳優は誰だって歌って踊れる。ハリウッド映画を観ながら、僕たちはその芸の集大成を観ているわけでね。クリストファー・ウォーケンも踊れるのかとびっくりするわけです。

 でもボードビルというのは今や死語ですね。昔はたけしさんが浅草のフランス座を拠点にボードビルを引き継いでいこうとしていたけど、今はその拠点がないわけでしょう? アメリカだってもうアステアみたいな存在はいないわけでね。

 ボブ・フォッシーという振付師がいて、70年代には映画監督もしていた人だけど、僕は彼のことをあまり知らなかったんです。ところが調べてるうちに非常に興味が出てきた。彼はアステアに憧れた人だったんですね。踊りがうまくて、若い頃にアステアの真似をしていて。でもアステアにはなれないと気づいて、自分のスタイルを作り上げた。アステアとフォッシーは年の差があったけど亡くなったのは同じ’87年なんです。その時、アステアが88歳、フォッシーが60歳。そこで何かが終わっちゃったんだろうね。

細野晴臣

 タップ・ダンスと同時に今やりたいと思ってるのが、ハット・トリックという伝統的な帽子の芸です。その2つをマスターすることが今年のテーマですかね。

 ハット・トリックはインスタグラムにあげたりしてますけど、ちょっとだけしかできない、まだ。もっとやりたいというのがあります。あれは体力を使わなくていいので。ボーラーハットって言うんですけど、まん丸の帽子を使わないとうまくできないんですよ。よく売ってる、俗に言う山高帽は人が被りやすいようにオーバルというたまご型になってるんです。楕円形でね。非対称的な形だと思うように動かせない。でもまん丸ならバランスが取れる。そのボーラーハットがいまだに手に入らないんですよね。売ってることはわかったんだけど、まだ店まで行ってない。

 サイレント映画のコメディアンはそういった帽子の芸をいっぱいやってましたから。それが踊りにも使われるようになって、ボブ・フォッシーも振付に帽子を使ってたんです。

僕はダンサーになりたかったのかも。

 ボブ・フォッシーは日本のダンサーたちにもかなり影響力がありました。僕が小学生の時、『光子の窓』というのをよく観てたんです。草笛光子さんが出ていて、井原高忠さんが制作した音楽バラエティ番組。そこに必ずダンスシーンがあって、そのダンスがけっこうボブ・フォッシー的というのかな。その後、ダンスチームにスタジオNo.1ダンサーズという名前が付いて、番組ができましたね、『スタジオNo.1』っていう。それも観てました。小学生なのになんでそれが好きだったのかわからないけど、真剣に観てた。ひょっとすると僕はダンサーになりたかったのかも(笑)。

 その流れでいうと、金井克子さんがダンスチームを組んだりしていてね。よくテレビで観ていて、「Steam Heat」という曲を歌いながら踊ってたんです。その時に確か帽子を使ってたんじゃないかな。このダンスナンバーは、ボブ・フォッシーが振付した『パジャマゲーム』というミュージカル映画の中で使われた曲です。

 でも中学生になったら、そういった番組がみんななくなっちゃったのね、テレビから。『シャボン玉ホリデー』が最後だったと思うけど、ダンサーたちの姿もテレビであまり観なくなっていって。

 ちょうどそのころ、『ウエスト・サイド物語』が封切りされて、姉と一緒に映画館へ観に行ったんです。中一の時かな。その時に衝撃を受けてね。『ウエスト・サイド物語』の冒頭のシーンは今でも素晴らしいと思うけど、あれでダンスの次元が変わったなと。ロケでダンスを見せていく、そしてダンスシーンがシームレスに続いていくっていう感じが新鮮でしたね。音楽と同じようにダンスにも興味があったんだな、僕は。

 思えば父親がダンサーになりたかったと言ってたんです、僕が子供の頃。ボソッと言っていてね。まさか冗談だろうと思ってたけど、その気持ちが今になってわかる。ハット・トリックも、もとは父親から習った芸だからね。

細野晴臣

消えちゃうものを、誰かが残していかないと。

 タップ・ダンスもハット・トリックも単に趣味ですよ。それをライブでやって、見せ方をちょっと変えていきたいっていうかね。

 最近思ったことは、僕はミッドセンチュリーの音楽をずっとやってきたけど、そういうレトロなものは今の時代みんな聴かないんだと。必要ないのかなと思って。自分の年齢を考えるとね、自分は20世紀を背負って死んでくんだなと、別に決意というほどでもないんだけど、そんなふうに思ってますね、今。

 もちろんそういった音楽を受け止めてくれる人はいるし、特に若い人に反応してくれる人が多いので、何かしら影響はあるんだろうと思ってやってますけどね。タップを踊ったり、帽子を回したり、そういうのもできれば若い人にやってもらいたい。

 消えちゃうものが多いんですよ、この時代。だから誰かがそれを残していかないと。誰でもいいんですけどね。他の誰かがやってくれたら、僕はやらないかもしれない。へそ曲がりなんで(笑)。

細野晴臣 ほそのはるおみ 音楽家。1947年生まれ、東京都出身。’69年にエイプリル・フールでデビュー。’70年にはっぴいえんどを結成。’73年からソロ活動を開始、同時にティン・パン・アレーとしても活動。’78年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント・ミュージックを探求、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。

取材・文/門間雄介
(C)2019「NO SMOKING」FILM PARTNERS