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YADOKARI

未来住まい方会議

アートディレクターのさわだいっせいとプランナーのウエスギセイタを中心とする「住」の視点から新たな豊かさを定義し発信する集団。ミニマルライフ、多拠点居住、スモールハウスを通じ、暮らし方の選択肢を提案。主な活動は、『未来住まい方会議』運営、スモールハウスのプロデュース、空き家・空き地の再利用支援ほか。
250万円のスモールハウス『INSPIRATION』販売開始。http://yadokari.net/

YADOKARI

未来住まい方会議

第16回「表現する暮らし」

2016.9.20


知らない土地にやってくると、渇いていた泉が満ちるように新しいものを創りたくなる。欲を言えば、ほんのひと時だけを過ごす旅人としてだけじゃなくて、そこの土地にしばし根をおろして、違う文化のなかで呼吸をしたい。知らない風が吹き、知らない花の咲く町。それは表現する者の魂を揺さぶり、新たな作品を世界に送り出す。

直島に向かうフェリーの中で、僕はそんなことを考えていた。波止場に着くと、建物自体が芸術作品のような海の駅でコインロッカーに荷物を預け、慌てて小さなバスに飛び乗った。春、夏、秋と続く瀬戸内国際芸術祭のまっただ中で、バスは外国人観光客でいっぱいだ。運転手は普通の島のおじさんだけど、なんでもないことみたいに英語でコミュニケーションをとっている。島のあらゆる場所に芸術作品があふれ、道に迷えば地元の人がにこやかに話しかけてくれる。

表現して暮らしていくのは難しいことだと思っていた。でも、チャンスはある。アーティスト・イン・レジデンス(Artist in Residence:AIR)という仕組みがあるのを知った。アーティストを一定期間滞在させて、創作の支援をする制度や事業のことだ。原点はなんと1666年のフランス。王立アカデミーが別荘を買い取り、「ローマ賞」を受賞した自国のアーティストたちをローマに滞在させて学ばせたのが始まりだそうだ。日本でも古くから、地方の富豪が画家や職人を自宅に逗留させてふすまや天井の絵を描かせていたというから、それもAIRの原点と言えるかもしれない。

アーティスト・イン・レジデンスという呼び方が広まるきっかけとなったのは、ベルリンのキュンストラーハウス・ベタニエンだった。1960年代末、ベルリンでは若いアーティストたちが、これまでの芸術の概念を打ち壊そうとして反体制運動を起こしていた。自由な表現の場を求め、無人の建物を不法占拠して創作活動を始める。普通なら追い出されてしまいそうだけれど、州政府はこれを容認し、病院だった建物をキュンストラーハウス(芸術の家)として提供した。そうして自国のアーティストだけでなく、世界各国から現代アートの芸術家を招くようになり、キュンストラーハウス・ベタニエンは現代アートを牽引していく存在になった。これに遅れを取るまいと、ニューヨークの「PS1」をはじめ、世界各国がAIRに力を入れ始めたのだ。いまや、AIRはビエンナーレやトリエンナーレには欠かせない。どこのAIRで活動したかが、芸術家のキャリアとして評価されるようにもなっている。

日本ではそれほどすんなりとAIRは始まらなかった。1980年代から90年代初頭のバブル期には、新たな美術館が次々に建設されたけれど、作品の創作過程を公開したり、アーティスト自身と交流したりするような取り組みはほとんど行われていなかった。でも海外のアーティストにとって、日本は創作意欲を掻き立てられる地であったようだ。1987年、オーストラリア・カウンシル(日本でいう文化庁)が、自国のアーティストを東京に派遣する支援を始めた。1992年には京都にヴィラ九条山が建設され、フランス政府が日本へアーティストを派遣するようになる。1997年になって、日本の文化庁もついに地方自治体との共催で「アーティスト・イン・レジデンス事業」を開始した。これはアーティストを支援するという目的だけでなく、アートによって地域を活性化させようという期待のもとに地域に広がっていった。

気候の安定した直島では、そこに暮らす人々も穏やかな表情を浮かべている。平安時代末期、保元の乱で敗れた崇徳上皇がこの島で3年間を過ごし、島民があまりに素直だったのに感銘を受けて「直島」と命名したのだとも言われる。農業には向かない地形で、製塩業や漁業、交易で栄えてきた。大正時代には三菱合資会社の銅精錬所を受け入れて裕福な町となったが、代わりに煙害に悩まされるようになる。環境問題に取り組み、飛灰を処理して再利用する取り組みが進んで、美しい瀬戸内の風景は保たれた。その美しい風景を活かし、1960年代には観光を産業としようとしたが、石油ショックも重なってなかなかうまくいっていなかった。

そんなとき、島を文化的にしたいと考えていた当時の町長と、直島にキャンプ場をつくるのが夢だった福武書店の創業者との間で意見が一致し、1992年には美術館とホテルとが一体化した「ベネッセハウス」が建設された。ここまでは、バブル期に日本各地で建てられた多くの美術館とあまり変わらないかもしれない。しかし直島の場合は、ハコとしての美術館を造るだけでは終わらなかった。無人だった古民家を再生させ、現代アートのインスタレーションの場とする「家プロジェクト」など、島をまるごと展示場にするようなプロジェクトが進み、あまり関心を持っていなかった島民をも巻き込んで島は大きく変わり始めた。道を行くおばさんが、誇らしげに近所のアート作品のことを教えてくれる。アートは暮らしに溶け込んで、島の内と外とを繋げるものになった。

うまく行かずに消えていく地方のAIRもある。たとえば、アーティストからの成果を期待しすぎて、自由を削いでしまった場合。成果物で判断するのが基本の行政評価と、AIRの事業は馴染みにくいものなのかもしれない。もともとのAIRは、創作の過程や地域との交流が目的であり、展示作品を納めさせるという成果発表を義務付けるものではなかった。地域にとっても、アーティストにとっても、相互に実りあるものでなければ続かない。

瀬戸内は今日も晴れて美しい。行き交う大型船や、小さな漁船。空は青く、海は澄み切っている。そんなビーチに、あたりまえのように黄色いかぼちゃのオブジェが佇んでいる。心地よい環境と島の人々、そして引き寄せられるようにやってくるアーティストたち。この島では新しいアートの息吹が生え続けるのだろう。表現する暮らしは、表現者自身も、その周りにいる人々にも、新しい刺激を与えてくれるのだ。


Via:
アーティスト・イン・レジデンス入門(ネットTAM)
http://www.nettam.jp/course/residence/1/

わが国のアーティスト・イン・レジデンス事業の概況(AIR_J)
http://air-j.info/resource/article/now00/

瀬戸内国際芸術祭2016
http://setouchi-artfest.jp/