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細野晴臣 ほそのはるおみ 音楽家。1947年生まれ、東京都出身。’69年にエイプリル・フールでデビュー。’70年にはっぴいえんどを結成。’73年からソロ活動を開始、同時にティン・パン・アレーとしても活動。’78年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント・ミュージックを探求、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。

 今度、松本隆の作詞活動50周年記念イベント「風街オデッセイ2021」に、はっぴいえんどとして出演することになってね(注・「風街オデッセイ2021」は11月5日、6日に開催。本インタビューは10月14日に収録)。リハーサルがこれからなので、ちゃんと決まってないところもあるけど、やるのは3曲の予定なんだ。
「風をあつめて」では僕がアコースティックギター、鈴木茂がベースを弾く予定だから、そこはちょっと面白いと思う。ベースを弾きながら歌うのは嫌だって言ったら、茂がやるよって言ってくれたんだ。「ベース持ってるの?」って聞くと、「うん、持ってる」って。茂がベースを弾くところなんて、いままで見たことなかったけどね。
 心配なのはブランクのある松本のドラムだけど、確認したところ、いま住んでる神戸でドラムの練習をしてるって言うから大丈夫なんでしょう。松本の45周年記念イベントで彼がドラムを叩いたときも、ファンには好評だったしね。
 前に松本や茂とステージに立ったのは、松本の45周年記念イベントのときだったから、2015年のことなのか。そんなに前だったんだ。これからも5周年ごとに集まるのかな。

 はっぴいえんどの頃は、それほど多くはライブをやらなかったけど、観てる人たちはいつもシーンとしてた気がする(笑)。自分たちもやる気があるのか、ないのかというね。その辺がよくわからないように見えてたのかもしれない。
 岡林信康のバッキングが多かったから、それで知ってる人のほうが多かったんじゃないかな。演奏はバッキングを積み重ねてたし、もともとエイプリル・フールで鍛えてたので、しっかりしてたと思うよ。松本も、なにしろレッド・ツェッペリンの曲を叩いたりしてたくらいで、まだプレイヤーの側面が強かった。
 ただはっぴいえんどのステージでは、僕がかたくなに歌おうとしなかったんだ。

 だから大滝詠一はステージでも歌ってほしいって僕に言ってきてね。でも結局、大滝くんに全部負担を掛けちゃった。
 そもそもはっぴいえんどを結成するとき、僕は歌を歌ったことがなかったから、僕と松本でシンガーをどうしようかと相談してね。最初は小坂忠が歌うはずだったけど、途中で事情が変わってしまい、路頭に迷ってたんだ。そこに現れたのが大滝くん。だから彼は僕らにとっては歌手なんだ。
 僕には歌手という意識がまったくなかったから、歌う練習もあまりしなかった。ベースを弾いてると、不器用で歌えないしね。
 とにかく練習しないグループだったな、はっぴいえんどは。だから、演奏がガタガタなこともあったと思う。特に初期の頃、まだはっぴいえんどっていう名前を付けてない頃に出たステージは、本当に演奏が酷くてね。そういうのを観た人は、はっぴいえんどはへたくそだという印象を植え付けられちゃったかもしれない。
 でも実際はレコーディングのような音を出せるわけでね。当時はPAなんてなかったし、そういうステージを組めなかった。ビートルズが日本武道館でやったときですら、PAはなかったから。とにかくステージの音が悪かった。そういう時代だから、ステージはどうしようもないなと。まあ怠けてただけだけどね(笑)。
 そういう意味では、僕たちのお手本はビートルズのやり方だったわけ。彼らはスタジオの中で音を作っていって、あるときライブではもう再現できなくなった。それでライブをやめちゃうんだよね。そういうことを参考にしてたから、あ、それでいいんだなと思ったんだ。ビートルズでさえそうなんだからって。

 その後しばらくの間、ライブがあまり好きじゃなかったのは、その頃の体験がそうさせちゃったのかもしれない。
 前に山下達郎から聞いた話なんだけど、大滝くんが彼にこんなことを話してたって言うんだ。はっぴいえんどの頃、ライブに向かう新幹線のホームに僕が来ないから、マネージャーの石浦信三が狭山の僕の家へ迎えに行くと、僕がお風呂場に隠れてたって。
 全然覚えてないけどね(笑)。でもそういうこともあっただろうなと。よく遅刻したりしてたからね。いまはまったくそういうことはないけど、当時は本当にダメ人間だった。いろいろと苦労したことを覚えてるよ。
 ただお風呂場に隠れてたことは覚えてないな。本当かな? それが本当だったら申し訳ない。あながち嘘とも言いきれないところがあるからね。

 今年は「風街ろまん」のリリース50周年でもあるけど、「風をあつめて」をレコーディングしたときは時間に非常に追われててね。スタジオに入っても曲が完成してなくて、スタジオの廊下でなんとか完成させたんだ。
 とはいっても実は9割方しかできてなくて、その状態ですぐレコーディングを始めたから、歌を入れるときにまだメロディのできてないところがあった。それでワンセンテンスずつ考えながら録音していったんだ。すごく恐ろしい体験だったな。エンジニアの吉野金次さんがいきり立ってたから(笑)。
「風をあつめて」は歌うのが本当に難しい曲だよ。誰が作ったんだと思うくらい。2005年のハイドパーク・ミュージック・フェスティバル以降、何度かライブで歌ったけど、最近は封印しちゃってた。歌うたびに間違えるから。でも松本の50周年記念イベントで歌わないといけないので、練習しないと。

 80歳になったら、またはっぴいえんどのみんなで集まって、音楽がやれると思うと話していたことがある。
 これは5年くらい前になるかな。僕がソロを作るときのために詞を書いてくれと松本に依頼したら、「エスプレッソ」というタイトルの詞ができてきた。それですぐに曲を書くつもりが、いまだにできてない。松本はそのことをずっと気にしてるみたいだね。でもそうやって新しい詞があれば曲もできる。だからはっぴいえんどの今後に関しては、松本の詞次第かな。5年かかっても何もできないかもしれないけど(笑)。
 でもまあ、大滝くんがいないとまったく成立しないね。大滝くんが亡くなる直前、「そろそろ曲を作ろうよ」と伝えたら、「それは細野さん流の挨拶だ」って受け流された。まずそっちをやってから、はっぴいえんどという道筋もあったと思うよ。これは比べようがないけど、ビーチ・ボーイズの『スマイル』みたいなものだね。幻なんだ。

 映画『SAYONARA AMERICA』のテーマ曲として、はっぴいえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」をカバーしたんだけど、1972年にレコーディングしたときのことをずっと思い出してたよ。
 あのときは自分たちの音楽がアメリカでもない、日本でもないという宙ぶらりんな状態で、誰が聴いてるんだろうという気持ちでいっぱいだった。でも自分たちの中では、とにかく完成したんだと。それで次の段階にそれぞれが歩みだしたわけ。
 ところがはっぴいえんどを解散したあと、どこかの廊下ですれ違ったムッシュかまやつさんに呼び止められて忠告されたんだ。「自分たちのやってきたことを忘れちゃ駄目だ」って。
 そのときは「ふーん、そんなものか」と思ってたけど、実際こういうことだったんだなといまになってわかる。はっぴいえんどがこんなふうに自分を追い駆けてくるとは思わなかったからね。物事は必ず影響をともなうから、ちゃんとやらなきゃなと思うよ。

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