FILT

細野晴臣 ほそのはるおみ 音楽家。1947年生まれ、東京都出身。’69年にエイプリル・フールでデビュー。’70年にはっぴいえんどを結成。’73年からソロ活動を開始、同時にティン・パン・アレーとしても活動。’78年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント・ミュージックを探求、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。

『Daisy Holiday!』(インターFM897・日曜深夜25時~25時30分)の月一プログラム「手作りデイジー」で、昨年の夏ごろから1960年代の音楽を取りあげてるんだ。でも60年代は濃すぎて、2月になってもそこから抜けられない。なにしろ1年ごとに状況が変わっていくような時代だったからね。
 60年代初期までは、音楽出版社が入居するニューヨークのブリル・ビルディングに作曲家や作詞家が集まり、いい楽曲を作って、シンガーに歌わせていた。そこにいたのがキャロル・キングやニール・セダカといったソングライターたち。彼らがヒットソングを生みだす時代が62年くらいまで続いていた。ところがそこにビートルズとビーチ・ボーイズが登場して、状況が一変するんだ。
 なかでも驚いたのはビーチ・ボーイズ。ビートルズはフィフティーズやシックスティーズ初期のカバーソングをけっこうやっていたから、そんなにびっくりはしなかった。でもビーチ・ボーイズの「サーフィン・U.S.A.」はそれまでの音楽とまったく違ってね。サーフィン・カルチャーも新しかった。カリフォルニアの若者たちにうらやましさすら感じたよ、ビーチと女の子とか(笑)。

 サーフ・ミュージックでは、初めにインストゥルメンタルのバンドがたくさん出てきて、そこには僕と変わらないような世代の若者たちが大勢いた。その中からサーファリーズという若いバンドの「ワイプ・アウト」がヒットしたりしてね。
 ちなみに日本だと「ワイプ・アウト」はベンチャーズで有名だけど、彼らは決してサーフ・バンドじゃない。初期はレス・ポールからの影響を感じさせるし、あらゆる音楽をカバーして、自己流にアレンジしたプロのグループだった。サーフ音楽というのはほとんどが素人のガレージ・バンドなんだ。ビーチ・ボーイズのウィルソン兄弟も、弟たちはもともとインスト系だったけど、ブライアンがガーシュウィンに憧れるような人だったから歌ものを作っていた。

 インストのサーフ・ミュージックは、ギターのエコーを使って波の音を表現した。一方でブライアンは、海がそれほど好きじゃなかったし、サーフィンもあまりやらなかったので、歌詞でサーフィンの情景を表現した。歌ものでサーフ・ミュージックをやり出したのは、やはりブライアンの才能っていうのかな。彼がビーチ・ボーイズで始めたので、みんなあとからやり出したっていう。
 その後、アメリカの若者文化はサーフィンからホットロッドへあっという間に移行した。映画『アメリカン・グラフィティ』みたいな、スポーツカーを改造して乗り回すカルチャーが台頭したんだ。レースも盛んでドラッグレースをしたりとかね。日本にはそんな文化入ってこなかったから、また聞きにすぎないけど。
 ホットロッドは、音楽的にはよりハードになったくらいで、サーフィンとあまり変わらない。ホットロッドを広めたのはジャン&ディーンという二人組で、彼らの代表曲が「ドラッグ・シティ」。でもその直前に「サーフ・シティ」という曲をヒットさせてるから、本当にわずかな間の変化だったんだ。どちらも曲を書いていたのはブライアン・ウィルソンだけど、彼とゲイリー・アッシャーが共作したビーチ・ボーイズの「409」はホットロッドの起源とも言われている。考えてみれば、サーフィンも好きだし車も好きっていう、単純な時代だよね。のちのサイケデリックの時代と比べたら、ドラッグもなかったし、健全といえば健全だった。
 そのころサーフィンやホットロッドをやっていた仲間たちは、その後もそれぞれが活躍していく。いちばんのキー・パーソンはテリー・メルチャーだね。

 ロサンゼルスで台頭したのがサーフィンやホットロッドだとしたら、ニューヨークではピート・シーガーやピーター・ポール&マリー(以下PPM)らモダン・フォークの台頭が著しかった。メルチャーという人は、映画『知りすぎた男』の「ケ・セラ・セラ」で有名なドリス・デイのひとり息子で、もともとビーチ・ボーイズのブルース・ジョンストンとサーフ・ミュージックをやっていたりしたんだけど、東海岸のフォーク・ブームにも興味を持っていた。それはボブ・ディランの存在が大きかったんだと思うな。
 ディランは当初、PPMの「風に吹かれて」とか、ヒットソングの作家として知られていた。PPMのマネージャーだったアルバート・グロスマン――彼もこの時代の重要人物だけど――が、PPMをどうやって売るかを考えたときに、優れたソングライターとしてディランを見つけてきたんだ。そしてディランが手がけたヒット曲のひとつに、ザ・バーズの「ミスター・タンブリン・マン」があった。

 ディランが自分のアルバムのためにレコーディングした「ミスター・タンブリン・マン」のテープを入手して、ザ・バーズによるカバーを仕掛けたのがグロスマンの一派。このときプロデュースを務めたのがメルチャーで、彼はサーフ・ミュージック時代に仕事をしていたスタジオ・ミュージシャンたち、ドラムスのハル・ブレインを始めとする、いわゆる“レッキング・クルー”の面々を集めてレコーディングした。
 ザ・バーズは名うてのフォーク・ミュージシャンが集まったグループだから、本来は自分たちで演奏できたはずだけど、まだレコード産業が大きな力を持っていた時代。プロデューサーの意見が強かったんだね。やがてメンバーがセッション・ミュージシャンたちによる演奏を嫌って抵抗し、メルチャーはプロデューサーの座を降りることになる。いずれにせよ、ザ・バーズを取っ掛かりにしてフォーク・ロックの新しい流れができて、メルチャーはそこで大事な役割を果たしたんだ。

 それからメルチャーはサイケデリック・カルチャーにも関わっていくわけだけど、決定的だったのはシャロン・テート殺害事件だね。数年前、僕は彼女の夫だったロマン・ポランスキーのドキュメンタリーを観て、事件の詳細を初めて知ったんだ。
 事件を起こしたチャールズ・マンソンはシンガー・ソングライター志望で、友人だったビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンに仲立ちしてもらい、メルチャーにプロデュースを依頼しに行った。ところがメルチャーに断られた。それで恨みを持って、メルチャーの家に押し入ったというんだ。
 でもそのときメルチャーは既に住んでいなかった。その家を借りていたのはポランスキー夫妻だったんだけど、ポランスキーはロンドンにいて不在で、たまたまいたのがシャロン・テートだったんだ。それが69年。メルチャーがどんなことを感じたか、詳しいことはわからないけど、精神的にそうとうダメージを受けただろうね。

 まあ、60年代はそんなような渦巻いた時代だよ。とにかくいろんなことが起きたでしょう? ケネディ大統領暗殺が63年。68年には弟のロバート・ケネディが暗殺されて、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアも暗殺された。公民権運動、ベトナム戦争、そのうちドラッグも蔓延して、怒涛の時代だね。
 ベトナム戦争の発端になったのはトンキン湾事件。アメリカ海軍の駆逐艦が魚雷攻撃を受けたことから、その報復として米軍による北爆が始まるわけだけど、いまでは事件の一部が米軍のやらせだったと言われている。実はこのトンキン湾事件のとき、米軍艦隊の指揮をしていたのがジム・モリソンのお父さんなんだ。フランク・ザッパのお父さんも軍関係の施設で働いてたんだよね。そうやって考えていくと、サーフィン&ホットロッド、フォーク、サイケデリックと続いていって、話したいことが終わらない。でもまだまだ長くなりそうだから、いったんここでやめておこうか(笑)。

CONTENTS