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バブルも経験をせず、終身雇用という概念も崩れ、社会の恩恵を肌感覚で感じにくい40代前半より若い世代。まさに「右肩下がり世代」といっても過言ではない彼らは、厳しい現状の中でも新しい生き方を模索しています。「知の巨人」であり、グローバルな視点で国内外の問題を語る佐藤優がメンターとして、右肩下がり世代で活躍する人々と話し新しい時代の価値観を浮き彫りにしていきます。

佐藤 大澤さんはメディア論や思想史の研究がご専門ですが、8月末に『1990年代論』という編著を上梓されました。とても興味深い企画ですが、これはどういう意図があって?
大澤 1960年代や1980年代に関しては分析や証言の蓄積が豊富なのに対して、1990年代は時代が近いということもあって手薄ですね。でも、90年代はまちがいなく現在のさまざまな社会問題の起点になっている。カルチャー方面に関してもそうです。あの時代の感触をいまのうちに言語化しておかないと後世から見たときに断絶が生まれるだろうなと。これは僕のデビュー作である『批評メディア論』で1920年代のことを扱うときに感じた証言の断絶をふまえてのことです。
佐藤 『批評メディア論』は完成まで7年半かかったそうですね。戦前の総合雑誌や新聞の文芸欄などからも膨大な引用がされています。
大澤 戦前の文芸欄は新聞の中でも特区のような場所で、あそこだけ署名記事だし、外部の批評家や作家たちに開放されていた。作りが雑誌的なんです。内容的にも論壇誌や文芸誌の状況と直結していました。両誌の性格もお互い近く、読書人はこの辺を全部セットで読んでいました。
佐藤 信濃毎日などはその伝統が若干残っていますね。琉球新聞、沖縄タイムスも。沖縄は論壇誌がないから新聞がその機能も果たしている。

大澤 1925年から45年まで20年分の主要な新聞と雑誌を実際に1ページずつ手でめくった上で『批評メディア論』は書かれているんですが、そのプロセスで日に日に戦争の足音が近づいてきている感覚を擬似的に体験しました。これは大きな副産物でした。
佐藤 わかります。僕は朝日新聞だけだけど、外務省の図書館で1941年から45年までは全部通して読みました。戦争に関してメディアが隠蔽していたとかよく言われるけど、実際に当時の新聞を読んでみると基本的な流れは読み取れますよ。虚偽報道といっても誤差の範囲内であって。
大澤 情報統制で雑誌には伏字が含まれることもありますが、一定水準の知識を持った人間が読めばすんなり推測できるように書いてあるんですよね。
佐藤 その点、イギリスは現在でも事前検閲があり、それも徹底している。伏字と白ページは作らせない。何が隠されていたかわからない。怖い国だよね。もっとも日本も、占領地域ではイギリス的な検閲をしていましたけれども。
大澤 隠されていることの目印すら隠されるわけですよね。こうなると対処がかなり難しい。それに比べれば、現在指摘されるメディアによる隠蔽やフェイクニュースなんてまだまだ対応可能な範囲でしょう。メディア論的なリテラシーを身につければよいだけ。それから何よりも前提知識のかん養、これにつきます。

佐藤 自由な社会はメディアを読むリテラシーが低下しがちです。旧ソ連時代のロシア人は、新聞の意向表現に敏感だった。例えばポーランドの自主労組「連帯」の動きが激しくなっている時、「プラウダ」(ソ連共産党機関紙)に「率直かつ実行的な援助を与える用意がある」と書かれていたら、それは「軍事侵攻」を意味していると誰もが読み取れた。
大澤 いまは日本の小中学校でもメディア・リテラシー系の授業が導入されているけど、形式ばかりでほとんど成果をあげていませんね。むしろ中途半端に習うものだから、陰謀論めいた過剰な裏読みになってしまう。大人の世界も事情は同じで、ビジネス誌で教養特集が多く組まれるけど、やっぱりうまく機能していない。
佐藤 付け焼き刃では全く意味がない。教養を身につけるには通史としての歴史を知ることが必須であり、歴史を学ぶには地道な基礎訓練と体力が不可欠です。残念ながら、現状としては歴史修正主義にも引っかからないような、反知性主義のメチャクチャな主義主張がマーケットで一定の場所を持ち続けている。

大澤 主な情報収集の場がSNSに移行してからは、真偽もソースもコンテクストも曖昧なまま、扇情的なキャッチコピーや部分的にトリミングした表現が独り歩きしがちです。議論の全体図を捉えないまま、たまたま手にした情報を信用する行為がいかに危険かということに早く気づく必要がある。
佐藤 特にウェブ上では、人は怒りっぽくなるからね。
大澤 それから、過去の書籍や文書などが次々スキャンされて、ネットにテキストデータとしてアップされていっているのは事実なのですが、すべてそうなっていると錯覚しがち。そんなことはありえない。デジタル化されているものなんてごく一部。デジタルの外には広大な空間が存在するという前提を忘れてはいけませんね。

佐藤 優 さとうまさる 作家 1960年生まれ 東京都出身。元外務省・主任分析官として情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者。"知の怪物"と称されるほどの圧倒的な知識と、そこからうかがえる知性に共感する人が多数。近著に『人生の役に立つ聖書の名言』など。

大澤 情報の精査に時間をかけているということですよね。今年に入ってイギリスのBBCがフェイクニュース対策の一環として、内容をきっちりと精査したうえで提供する「スローニュース」に注力すると表明しました。これはよい傾向だと思います。受け手の側もそろそろ「スロー」や「待つ」という感覚を取り戻す必要がある。速さを追求していけば、速く読めるものしか読まなくなる。
佐藤 SNSはまさにそうですよね。危険なのはLINEのスタンプですよ。表現力も読解力も衰えるうえに時間を取られる。私が教えている同志社の学生のうち、成績優秀者はSNSをもともとやっていないか、いてもやめました。
大澤 スタンプやインスタは完全に言語の放棄ですね。感情だけで瞬間的に連帯感を生むメディアですから。僕が編纂した『三木清教養論集』の中に何度も出てくる通り、ロゴス(論理)とパトス(感情)の両方の統合なりバランスなりが不可欠です。論理や言語を手放さないためには、「論理力を身につけるには……」といったハウツー本ではなくて、人文系の本に目を向け直すことだと思います。

佐藤 フェミニズム神学はまさにその問題を扱う研究です。聖書自体が女性の活動を排除した編纂だという仮説のものに、「書かれていないものを読む」。大変な作業だし、方向として成功しているかは別として、問題定義としては極めて面白いです。
大澤 これは専門家や言論人だけの問題ではなく、我々の生活の中でも問われるようになってきていると思います。「ネットに書かれていないものを読む」必要をちゃんと念頭に置いたうえで、デジタルと接していかないとダメですね。
佐藤 もう一つウェブの情報で怖いのは、簡単に修正できる分、不確かな情報が出回ることです。紙も媒体によってはウェブのスピード感に引きずられている。最近は学生に新聞を勧めるとき、日経新聞を挙げるんですよ。経済記事を除けば、情報が遅いから。ほかの新聞の朝刊に載ったニュースが夕刊に、夕刊で出回ったニュースが翌日の朝刊に乗るペースなんです。

大澤 聡 おおさわさとし 批評家 1978年生まれ。近畿大学文芸学部准教授。専門はメディア論/思想史。ジャーナリズムの歴史的な調査をもとに現状を批評している。著書に『批評メディア論』、編著に『1990年代論』『三木清教養論集』など。

佐藤 古典を読む利点はいくつもあって、例えば、今おっしゃられた戦前の思想家・三木清、あるいは小林秀雄といった知識人の文章は、内容のみならず、論理展開やレトリックも優れています。そういう表現法の優れている文章を読むことで、リテラシーは培われていくんですよね。ただ情報を大量に読めばいいというものじゃない。
大澤 三木の『人生論ノート』は、「愛」や「嫉妬」「礼儀」など、23のキーワードを章題に掲げた哲学エッセイ集です。コンセプトが明快なのでいまだに売れているんですが、僕としては彼の他の論説の一節にたまたま言及された「嫉妬」に関する言葉の方が記憶に残っている。「嫉妬」の処し方を知りたいと思ってピンポイントで読んだ文章は、意外にもすぐに流れ去ってしまうんです。
佐藤 ましてや、ウェブで「嫉妬について」と検索してキュレーションメディアやまとめサイトに載っている情報を見たところで、記憶に残るわけがないよね。だいたいは何事も、急ぐとろくなことがありません。
大澤 ごく常識的な結論になりますが、時間と労力とそれなりの金銭をかけてじっくり向き合ったものだけが、自分の血肉となりうるんでしょうね。

構成/藤崎美穂 撮影/伊東隆輔 撮影協力/PROPS NOW TOKYO
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